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所謂女好き,とは

先日参加した上野千鶴子さんの講演
「ミソジニーとは何か」にて

シスヘテ男性が自称する"女好き"は経験人数の多さで語る

というフレーズにどきゅんと来た。
質より量、というよりも経験人数が多い=不誠実を豪語することに直結するのに、どうしてマイナスイメージを自ら、鼻高々に語れるのか。

きっと「昔はワルだった」「自分だってやるときはやれるんだぞ」と多少盛った事を口走る事と一緒で、"ルール"に囚われず、自分を貫くことが出来る人間の様に見せる格好がソレなのかもしれない。
私も、「昔はもっと…」って、虚勢を張ってしまうことあるもん。
そういうイメージを与えたくて、豪語しちゃうときもあるよね。

まあどうせ、その薄っぺらい設定なんて現在等身大の自分が簡単に払拭してしまうのに。良くも悪くも。

ということで冒頭のフレーズ通りの方は
「"ルール"に囚われず、自分を貫くことが出来る人間」
ではなく
「だらしない不誠実な最低人間」
と印象付けられます。

それとは別に、やっぱりホモソーシャルって凄くて
そこで張り合う材料として語られる"女好き"の意味をそのままホモソの外に持ち出してしまって周りをドン引きさせてるんだな、と。

さて私の自称する"女好き"なのですが、
高校時代まで「この世界に可愛くない女の子なんて存在しない」と疑いもなく思っていました(現在は様々な人間に出会い、性格上等による例外がある事も知った上で、「この世界に可愛くない女の子なんて存在しない」と考えています)。

そもそも生きている時点で可愛い尊い。

なので
悲しい気持ちになっている女の子は元気に楽しい気持ちに一瞬でも早くなってほしいし、
ハッピーな女の子はハッピーをきらきら継続させていてほしいし、
イメチェンしたい女の子は全力で応援したいし、
女の子になりたい女の子はもう女の子なので少しでも苦しまないでほしいし、
逆に女の子やめたい現在女の子は苦しんでいてほしくないし、
すげえことしようと企んでいる女の子はぶちかましたれ!と背中を押したいし

でもなんでこう、悩んだり、幸せで居続けることや良い変化を起こしたいと奮起する時に邪魔が入る?って、女だからなんですね。

男性からは"女だから"という理由で撥ねられて嫌われ、
女性からは"女だから"という理由で妬まれ嫌われ、
邪魔される。

その行動を起こすのが"その人だから"という理由で現象が発生している事案が少ない気がする体感。
結局性別のレッテルがでか過ぎて生まれる嫌悪による妨害かと。
そう思う。

男性からの妨害は"女好き"を自称される方が行動している事が多く感じる体感。
「黙って所有させてくれて都合のいい部分だけ搾取させてくれる」対象ではなくなる相手はどんな美人が相手でも「ブス」と喚く。

本当に"女好き"を自称するなら、相手の選ぶ行動を尊重する事が出来るはずなのにな。

対して女性からの妨害は「自分が出来なかったこと」を文字通り妬む気持ちで生まれているし、自分が出来なかった背景にはまた過去に受けた妨害が影響してくるし、妨害されたから私も妨害しようのスパイラル発生が多く感じる。

確かに自分が成し遂げられなかった事、他人に成し遂げられそうになったら自分が受けた妨害をしたくもなるものですよね。ざまあみろ精神の再生産。

でもそれ、相手が好きな人間だと、応援する女性が多いと感じます。
よく「女性同士は表は仲良く見せて、陰ではドロドロしている」とイメージされがちですが、
本当に好んで付き合いをしている相手ならそれは悔しい気持ちもありながらも応援できる人が多い。応援できないと思えば、距離を置く。
案外あっさりした人間関係を構築できるもの。

というか、陰でドロドロしているなんて女性に限った事じゃなくない?
全生物の話!
個々人の性格上巻き起こる騒動!


と、拙い人生経験と照らし合わせて講演後に考えた事。
所謂"フェミニズム"って人間を勉強するのにためになりますね。(小並感)

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