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人が好きだ、話すのも好きだ。人間は嫌いだ

学校に行くと途端にスイッチが入る。自分じゃないなにかが無理やり体を支配して、「明るい陽キャ」に変わっていく。
好きでもない人に愛想を振りまき、仲良く無いクラスメイトからのフォローリクエストを渋々受け入れる。
僕の中での「知り合い」は、学校のクラスで話す人、過ごす人である。その中でも仲の良い人とそうでない人に分けられて、もうぐっちゃぐちゃだ。
それらの人(ここからは学校の友達と言わせていただく)に女の子が多かったことと、他クラスや他学年のところへよく行っていたことで女子たちに女たらしだとレッテルを貼られてしまった。学校の友達に可愛い子が多かったから、その子達を好きな男の子に嫌われてしまった。

いつも家に帰ればすこし泣いた。ひどい倦怠感と疲労感が身体を襲う。やっと「陽キャの自分」から開放された。あの場所では自分の本性を鉄の壁で隙間なく強引に覆い隠される。

学校だけで仲良く喋って遊びには行かない人を友達と呼ぶのだろうか。悪口に近いいじりをされるのは果たして馴れ合いなのだろうか。いつまで優等生でいなきゃ、いい子でいなきゃいけないんだろうか。

周りからは、
「よく喋って陽キャで女のキープを作ってそうで人生を楽しんでいる人」
とでも思われている。
喋るのは好きだ。人も好きだ。けど人間関係は面倒くさい。
そんな矛盾にまみれた感情を持つことは間違いなの、自分の本性を今更バレるのが怖くて遊びに誘えない。最後に遊びに誘われたのはいつだっただろう。現代の物に慣れない。BeRealの何がいいんだ。LINEの返信は3日は返せないし、150人もいる友達の中でピン留めしている数少ない10人ばかりの精鋭は小学生の頃の友達で大多数が構成されていて、みんな最後に遊んだのは半年以上も前

インターネットなんてない時代に生まれたかった。会って、電話で、あるいは手紙で思いを伝えて、そんな面倒くさくて回りくどくて愛おしいことをする時代に生まれたかった。すぐに思いを伝えられるツールが発達しすぎて、逆に何も伝えられないこんな世の中に、趣すらエモいの一言で片付けられるこの世の中に、一体何があるんだろうか。ネット通信なんかじゃなくて友達とどこかで集まってワイワイゲームをしたいし、ウォークマンに有線のイヤホンで恋人と隣り合って音楽も聞きたかった。左右で音が違うなんてどうでもよくて、ただ寄り添っている時間を楽しんでいたかった。今の人は3時間あまりの映画に、1時間ばかりのドラマに耐えられないだけでなくあろうことか4分の音楽ですら楽しめない人がいる。
何に生き急いでいるの、順応できない僕が悪いのねわかってる

集団行動が不得手なのはおかしいのだろうか。
友達と大人数ではなく二人で遊びたいのは不自然だろうか。
女の子に二人で遊びに誘うのはその気がないとだめなのだろうか。
ジェネレーションギャップをよく感じて話を相手にただ合わせるだけになることがあるのは僕の趣味がわるいのだろうか。
学校に行くのが辛くて辛くて授業をサボるのは果たして本当に悪いことか。

一人でいるのが一番楽なことに気づいてから昼休みを空き教室で過ごすようになるまで時間はそうかからなかった。

そんな僕が少しだけ楽に学校生活を遅れるようになったのはまた別のお話

自己紹介のノートを作ろうかな。


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