書くことしか出来なかった📝
祖母の弔辞を書いたことがある。
私は、おばあちゃん子だった。
小学生の頃は、読書感想文が書けなかった。
今でも、夏休みになると一番憂鬱だったのが読書感想文だったことを思い返すと不思議でならない。
多分、それが学校で推薦する書物だったからだと思う。
自分が読みたい本の内容なら、書けたのか。それらを読みたいとも思わなかった。
仕方なく母親が読んで感じた言葉を聞いて、夏休みが終わる頃に、感想文をまとめていた記憶がある。
10代の頃から作文は好きになっていった。
中学生になってから、毎日、担任の先生に
日記のようなものを書いて提出していた。
内容は何でもよかった。
朝、提出したノートを先生が回収し、赤字でメッセージが付いて帰りに戻ってきた。
中学の担任の先生は歴史に詳しかった。
毎日、学級新聞を作ってくださった。
そこには、毎日、生徒たちが提出しているノートのコピーを貼って、構成されていた。
選ばれた生徒の名前は書いていなくても、文字の特徴で誰のものかは分かる。
田舎の学校だから生徒人数は少なかったが、学級新聞は卒業まで続いた。
おそらく、その頃から文章を作る練習になっていた。
そうして社会人になってから、新聞や雑誌の投稿を始めた。
作文は新聞にもよるが、400字くらいの投稿だと、1,000円の図書券や図書カードがもらえた。
別の新聞社では800字で3,000円だったり、特製ボールペンだったりした。
フリーテーマで書くこともあった。
父親は、話すことは好きだが書くのを好まなかった。
「(ちび蔵)は、文章を書くのが上手いなぁ。頭で思ったことを言葉にするのは、出来る人ばかりじゃないんだぞ。イメージして、こういう文にしようと思っても、それを自分の言葉で表現できるのは、特技だからな」
父親は、よく褒めてくれた。
祖母の葬儀では父親は喪主になり、悲しみもさることながら、弔辞の言葉が浮かばないようだった。
筆が止まった父親の傍らで、
「私が代わりに書くよ」
と自ら申し出た。
悲しさも寂しさも襲ってきたさ中に、おばあちゃんがくれた才能が「文章を書くことだった」のだと、そのときに気づかされた。
万葉集を愛読書にしていた祖母が、庭に咲く花を指して古(いにしえ)の短歌を教えてくれたのが、文学の先生としての講義だった。
私は楽しいから聞いていたのだが、小学校の教師をしていた祖母の最後の生徒の一人だったのかもしれない。
弔辞に何を書いたかは覚えていないが、父親からお礼を言われて、本当は「おばあちゃんからもらった言葉だったよ」と言いたかった。
言葉は忘れても、感情はいつまでも残る。
誰かのココロに、感情の跡をつけるために言葉があるのだと思う。
だから、私は自分の言葉で書くことが大変だと思ったことはありません。