見出し画像

《子ども一人ひとりに配慮する》ということ 反省文の害⑦

特別な配慮を要する子どもがいる場合がある。
かつて、軽微な心疾患があり常に薬を携帯している子どもを引率し林間学校での登山活動を行うことになった。教師は、最悪の事態も考慮して準備を進めなくてはならない。子どもの命に関わることだ。事が起きてからでは遅い。
次のような対応をした。

山中で体調が急変した時、「携帯電話が使えるか」「背負って救急車が待つ車道に出るまで最大何分かかるか」などを調べた。事前に登山コースを歩き、電波の入り具合、車道までの脇道の有無を確認した。谷の数カ所では電波が来ていなかった。車道は遠く、高学年の子どもを背負っての移動は男性教師でも厳しい。
友達との宿泊に興奮して寝付けない場合もある。「普段の学校生活ができているから大丈夫」とは言い切れない。
最悪な事態の対応は困難と判断して、体力の無い子のために別コースを用意した。最悪の事態を避けるため保護者と相談した結果の選択だった。
当日、部分的とは言え「みんなと一緒でなかった(足を怪我していた子と2人だけのコースだった)」のは寂しいかなと思いながら子どもを見ていたことを記憶している。

大勢の子ども達が一斉に同じ活動を始めれば必ず様々なズレが生じる。年齢が近いだけの個々に異なる集団だから、何をしても全員が同じになるわけがない。教師は、この個々の相違に応えながら全員が参加できる方法を考えなければならない。

例えば、先の登山の場合はどうか。
教師は、子どもの体力や人数、行程と時間、引率教師数を念頭に入れて、次のような工夫を考える。


①体力差が出ない工夫をする
・体力のない子の荷物を減らして負担を軽くする。
・コースの途中に細かく休憩時間を入れる。
②体力差に応じて所要時間を変える
・全体を早足組と散策組に分け、散策組の先にスタートさせる。
(体力のない子どもに時間的余裕を作る。)
③体力差に応じてコースを変える
・負担が大きい一部を急坂コースと平坦コースを設ける。
・スタート位置(歩行距離や難易度)が異なる2コースを設ける。
④コースそのものを見直す
・登山コースをハイキングコースに置き換える。
⑤歩行形式を変える
・列を作らず、グループで歩行させる。
(例:地図を持たせオリエンテーリング形式で歩かせる。自分達で考え判断しながら歩くため立ち止まることが増える。体力がある子も退屈しない。)

基本は①だ。それでも困難があると予測した場合②以降を組み合わせる。そうやって集団を維持しながら、安全に全員が参加できるように工夫する。心疾患がある子どもを連れた登山の例は①と③を組み合わせたものだ。

これは授業やその他の活動も同様だ。
以下は、学習活動の工夫の例だ。
登山の例と比較すると、その構造が似ていることが分かる。


①個人差が出ない工夫をする
・同時間内に取り組む量(負荷)を変える。
(例:早く終えた子にチャレンジコースを設ける。)
・課題や取り組む時間を細かく区切る。
(量が多い、時間が長いほど、ズレは大きくなる。)
・学習活動に変化を入れ、活動の偏りを減らす。
(書く、読む、話す、聞く、数えるなどの作業、起立などの動作を満遍なく入れることで、苦手な活動を長く続けない。)
②個人差に応じて用具・環境を変える
・使用教材や道具を個別に変える。
(例:大判教科書、マス目が大きいノート)
・座席位置を変える。
(視覚や聴覚の過敏による負荷を減らす。)
③個人差・課題に応じて難易度・内容を変える
・課題の難易度別・内容別に学習グループを分ける。
(例:水泳の泳力別、算数の習熟度別、楽器演奏のパート別)
④学習活動を変える
・学習集団の個性に応じて活動方法を変える。
(例:新聞作り、紙芝居作り、クイズ作り、劇化など)
⑤学習形態を変える
・課題に応じてペア学習、グループ学習の形態を使う。
(子どもどうしの活動が互いの支援になることが多い。)

教師は、このような方法で個々の違いに対応する。一斉活動の中でも、一人ひとりが活動に集中できるように配慮する。子どもが安心して活動するためのシステムを作ると言ってもいい。
よく「課題が早く終わった子のために次の課題(読書、クイズ他、なんでも有り)を必ず用意せよ」と言われる。これは「①個人差が出ない工夫をする」の例だ。

それでも実際には、気づかれにくい個々の違いが存在する。
教師がどんなに配慮しても、《一人だけできない》という予想外な事態は起きる。(注1)

残念だけど、これは避けられない。避けられない以上、起きてから対応する。それでいい。それしか方法はない。

再び、登山の例で考える。
どんなに準備をし、子どもに目を配ったつもりでも、登山途中の怪我や体調の急変など《一人だけできない》事態は起きる。
《できない》事実を理解した教師は、その子に「やりなさい(予定通り歩きなさい)」とは言わない。

歩行が困難になった子どもに、教師は「歩きなさい」とは言わない。

教師は子どもの安全を最優先に考え、予定を変更する。その一人を集団から一旦離す判断をする。
例えば、別の引率者に付き添いを頼み、まず休ませる。その後、荷物やコース取りなど負荷を減らして歩行を継続する、または引き返すなどの方法を取る。それが、その時の子どもに《できる》ことだからだ。

つまり、登山途中、歩行が困難になった子どもを《できない》からと言って置き去りにする教師はいない。子どもの様子を観察し、何が《できる》かを考える。《できる》ことをさせる。必ずその「一人」対応する。予想外に起きた事態に対応する。置き去りはあり得ない。

学習活動もこれと同様だ。
教師がどんなに学習活動を工夫をしても《一人だけできない》という事態は起きる。どんなに努力しても、起きる時は起きる。《一人だけできない》子どもが悪いのでもなく、予想できなかった教師が悪いのでもない。

《一人だけできない》でいる子どもに、教師は「やりなさい」と言ってはいけない。

大切なのは《一人だけできない》でいる子どもを教師が受け入れることだ。「(自分の方法が)うまくいかない」という予想外な事態を教師が受け入れることだ。
「うまくいかない」なら変えるより他ない。「うまくいかない」ことを受け入れず「やめなさい」「やりなさい」と繰り返すだけでは、子どもを追い詰めることになる。それがどんなに辛い結果になるかは繰り返し書いてきた通りだ。(注2)

以下に、言葉を換えてまとめる。

教師が預かっているのは、個々に異なる「一人」の集まりだ。
教師は、個々の違いを理解して、一斉の活動の中にそれぞれが参加できる活動システムを作る。
しかし、そのシステムで「うまくいかない」予想外な事態が起きる。《一人だけできない》事態が起きる。
その時は、その《できない》という事実を受け入れる。そのシステムに固執しない。「やりなさい」と言わない。子どもが《できる》活動を考える。その「一人」に応じた新しい参加の仕方を考える。新しいシステムを作り、その子に対応する。
システムを硬直させてはいけない。目の前の子どもに応じて絶えず更新させる。システムとは、そういうものだ。
そして、このようなシステム作りからシステム変更までを含めた一連の教師の対応が《子ども一人ひとりに配慮する》ということだ。

《子ども一人ひとりに配慮する》とは《一人だけできない》でいる子を教師が受け入れることだ。
一旦作ったシステムをその子のために作り変えることだ。


容易なことではない。
でも、諦めない。教師だから諦めたくない。

今回は、ここまで。


(注1)
起立性調節障害、感覚過敏や感覚鈍麻(視覚、嗅覚、聴覚、触覚、固有覚)、LD(学習障害)やコミュニケーション障害など、これら多くの不自由は外から見えにくい。そのため長く「努力不足」「怠慢」と誤解されてきた。今現在でさえ「診断が出ていない」ために理解されない場合も多い。

(注2)
私は、追い詰められた子ども達の実例を挙げてきた。
「アイツだけ」と繰り返し反省文を書かされた彼であり、ルミ子先生に腕を捕まれたヒトカゲくんであり、残酷な「やり直し」を求められた子どもであり、ズルやウソをしていた小学3年生の私だ。

いいなと思ったら応援しよう!