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《できていないところ》を見つめると《できているところ》を見失う 反省文の害③
「やよい先生、ヒトカゲくん、ちゃんとさせて。」
校庭で体育の授業を始めてすぐ、ルミ子先生が小走りで近づき小声で言った。1年生は同じ時間に校庭を分け合って使う。だから、同学年のルミ子先生が校庭にいた。
「ヒトカゲくんのことは、先生もご承知のはず……。」
驚いている私に、ルミ子先生は早口で言った。
「今日は学校公開でしょう。みんな見てるわよ。」
そう言って、校庭の隅に一人でいるヒトカゲくんに目をやった。
ヒトカゲくんは集団行動が苦手だ。
ヒトカゲくんに「みんながやっているからボクも」は、ない。「ボクは今、アリさんが見たいの」となったら、アリを見て動かない。(本当は「○○はやりたくない」が大きな理由かもしれない。)強引に中断させようとすれば、大声で叫んで抵抗する。
「やめて。痛いよ。意地悪。先生なんか大キライ。」
ヒトカゲくんの保護者からは、ASDの診断書が提出されていた。
幼稚園では子どもどうしでの関わりが少なく、一人で本を読む、絵を描くなどしていたそうだ。ただし、そうしている間は静かで落ち着いていられる。見通しが立たないことには不安が強く、新しい環境に慣れるまで時間を要するとの話だった。
このため、入学早々に保護者と管理職・担任で三者面談をし「連絡を取り合いながらヒトカゲくんに応じた対応を模索する」ことで了解を得ていた。
ルミ子先生もそのことは知っている。
見通しが立たないことには不安が強く、新しい環境に慣れるまで時間を要する
今が、まさに、その状態だ。
ヒトカゲくんは、課題を見て「難しそうだな」「できるかな」と思っている間は、活動に参加しない。
体育の準備体操に不安があるから参加しない。離れて様子を見ている。見ていないようで、実は肩越しに見ている。準備体操が終わって、○○遊びなどの活動が始まり「これなら大丈夫だ」と思うと徐々に近づき、誘ってくれるのを待って参加する。
しかし、ルミ子先生には、このヒトカゲくんの行動が許せない。以前、強引に列に入れようとして爪痕が残るくらいに引っかかれた。
ヒトカゲくんの行動を「悪い」と思うから、やめさせたい。やめさせたいから、ヒトカゲくんに「やめなさい」「ちゃんとしなさい」と言う。手を引いて集団に参加させようとする。
確かに、これは自然な行為だと思う。よくある風景だ。
ただし、この自然な行為は、やめさせたい側にとっての話だ。
不安だから離れて様子を見ているヒトカゲくんの側からすれば、大変な蹂躙を受けた気がする。爪痕が残るくらいに引っかいてでも抵抗しなければならない。
全力で抵抗するのは、ヒトカゲくんにとって自然な行為だった。
このふたつが折り合うのは簡単ではない。
この引っかき事件の後、私は、ルミ子先生に学年としての理解を求めた。
「すみません。直ぐには無理です。3ヶ月ください。安全には気をつけて必ず視界に入れておきます。夏休み前には、学校生活に慣れると思います。」
ルミ子先生は、理解しかねる様子で答えた。
「ああいう(悪い)行動を放置してはダメ。教師は毅然とした態度で止めなけくちゃ。それに、子どもによって対応を変えていたらルールが徹底できないでしょ。集団を維持できないわ。」
それが、ルミ子先生の考え方だった。
一般論として、そういう考え方はある。
でも、それが困難だから言っている。
「ヒトカゲくんは、『やらない』のではなく、今はまだ『できない』んです。『できる』ようになるまでの時間をください。ヒトカゲくんには時間が必要です。」
「甘やかしちゃダメよ。」
私の言葉に、ルミ子先生は少し呆れた顔で承知したような承知できないような返事をした。
ヒトカゲくんだけではない。
集団参加(集団と同じように課題をこなすこと)が難しい子は、必ずいる。困難さの具合が違っても、必ずいる。
それは、個々に身長や体重が違うのと同じように当然なことだ。
違って当然なのに、特に大きい子、特に小さい子は目立つ。
同じように、特に何かしらの困難がある子は目立つ。
「あの子だけ、できていない。」
《できていないところ》に目が向く。
そして教師は「どうにかしなければ」と思う。
「どうにかしよう」として働きかける。
問題は「どうする」かだ。
ここは思い切って、断言。
「すぐには『どうにもならない』。それはムリ。」
誤解のないよう、言い方を変えてもう一度。
「すぐには、ムリ。」
特に目立つと言うことは、その部分に大きな困難があるということだ。
そこから手を着けようとするのはムリだ。そこは最後と言っていい。
手を着けやすいところから始める。そして「できた」「できた」を繰り返す。そうやって、少しずつ本丸に近づく。これ大切。
ヒトカゲくんを再度よく見て欲しい。
ちゃんと体育着に着替えている。ちゃんと校庭に出ている。ちゃんと肩越しに見ている。「これなら大丈夫だ」と思うと徐々に近づき、誘ってくれるのを待ってちゃんと参加する。そして授業の終わりには、ちゃんとみんなと一緒に教室に戻る。ヒトカゲくんは、ちゃんとみんなと一緒にいる。
これだけのことが、できている。
《できているところ》を見る。認める。
それはその子なりに頑張っている部分だ。
それを認めず《できていないところ》ばかりを見ていたら、指導のスタートラインにも立てない。
ヒトカゲくんは、離れた所から肩越しにみんなの様子を見ている。みんなを気にしている。それがヒトカゲくんに《できているところ》だ。
ここがスタートラインだ。
何回も見せればいい。見せながら毎回同じ号令をかけて聞かせればいい。ヒトカゲくんは分かろうとしているはずだ。見て、聞いて、少しずつ分かればいい。ポイントは、毎回同じことを楽しそうにやること。
徐々に近づいて来れば変化だ。近づかなくてもこちらを見ている時間が増える。興味を示しているのが分かる。そうなったら、できそうな部分を探して作戦を立てる。例えば「ジャンプ楽しいよ。一緒にやろう」と声をかける。
それくらいに時間をかけ、少しずつの変化を起こす。だんだんにできることを増やす。
それが「すみません。直ぐには無理です。3ヶ月ください。」の意味だ。
でも、ルミ子先生にしてみれば、学校公開という場で、ヒトカゲくんを集団から離しておくのは受け入れ難い事態だったのだろう。「まさか、こんな日まで……」と思ったのかもしれない。
「困るのよ。あれじゃあ、ちゃんと指導しない学校だって思われるわ。」
そう言うと、ルミ子先生は足早に自分の学級の子どもたちの所に戻った。
やはり、ルミ子先生は「3ヶ月」の意味を分かっていない。
今「ちゃんと」させるのは、無理なのだ。
私は子どもたちを連れてヒトカゲくんの近くに移動し、ヒトカゲくんを隠すように準備体操を始めた。
その後、オニゴッコか何かをしたのだと思うけれど、よく覚えていない。ヒトカゲくんが集団に参加したかどうかも覚えていない。
私は、ヒトカゲくんのことに困ってなかったけれど「後で、ルミ子先生になんて話そうかな」と困っていた。あの様子では、私が想定していた「3ヶ月」を理解してもらうのは難しそうだ。
「やめなさい」と言って行動の中止を求めるのと、反省文を書かせるのは似ている。
「……だから、やめなさい。」
《できていないところ》を見つめて、そこに働きかけている。
一生懸命に、その行動が「悪い」理由を説明したり考えさせたりして、やめさせようとしている。自分が期待する望ましい行動をとらせようとしている。なぜ悪いのかを自覚できれば、子どもの行動が改まると考えている。
《できていないところ》に注目した教師が「どうにかしなければ」と思い「どうにかしよう」と、子どもに働きかける。
「やめなさい。」
「ちゃんとしなさい。」
子どもができなければ、繰り返し働きかける。
「やめなさい。」
「ちゃんとしなさい。」
特に何かしらの困難がある子には何回も繰り返すことになる。
しかし、それでは、子どもが《できていないところ》ばかりに注目することになる。《できているところ》を見落とすことになる。
《できていないところ》を見つめると《できているところ》を見失う。
今回は、ここまで。