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朝雪が降った話

最近私は朝が早い。寝ていたくとも4時台や5時台に目が覚めてしまう。0時に寝ても20時に寝ても結局完全に目が覚めるのは4時や5時なのだから早く寝るようにしている。それは日常でも、旅をしている非日常でも同じである。

ここ数年毎年5月24日前後の十勝岳の残雪を撮影しているため現在私は上富良野町の温泉街にいる。5月24日といえば1926年(大正15年)に十勝岳が噴火し、まだこの時期の山に横たわる残雪が融雪型泥流となって上富良野町と美瑛町を襲った日である。その日からもうじき100年になる。

2024年の今年は主に5月23日に残雪を撮影した。24日は残念ながら雨だった。そして25日の今日、上富良野町から札幌へと戻るその日にまず朝風呂に入った。私が宿泊している宿では6時から8時まで入浴可能である。すでに完全に覚醒している私は6時5分に脱衣所に着いた。体重を測り、昨日のラーメンと豚丼ハーフかと理由を探る。まあいいか、風呂に入って代謝を上げるのもダイエットの一環と誰もいない風呂場に入る。シャワーで体を流しまずは内風呂に浸かる。いきなり露天風呂に行くと北海道の朝の空気がシャワーで濡れた体を震え上がらせるからである。もう3泊もしているのだからきちんと学習している。朝は体が冷えているものだが昨日の夕方と比べると岩風呂という名の内風呂はぬるく感じた。昨日は雨だったし気温がかなり低かったから体が冷えていたのだろうか。岩風呂で数分体を温めたあといざ長谷川等伯の松林図屏風の世界へ。露天風呂へと向かう二重の扉を開けて外に出たが心臓がキュッとなるほどの寒さは感じない。まずは一番手前のぽかぽかの湯へと向かう。

霧で白く、しかし樹木の灰色の影はぼんやりと見える中、ぽかぽかの湯に入っていると雪が降っていることに気がついた。雨よりもゆっくりと描くふらついた線。粒が小さいので雨と雪の中間なのかもしれない。両手を湯の上に出し雪が落ちるのを待つ。だが降ってくる数が少ないからかなかなか手の上に漂着しない。チェッと思い両手を湯の中にしまい目で雪を追う。突然明らかに雪と断言できる結晶がふらふら舞い降りる。初雪の頃の大きさだろうか。湯の中では普段よりも行動が遅くなるため手の平で受け止めることはできなかった。

ぽかぽかの湯から女神の湯へと場所を変える。女神の湯は3つある露天風呂の中でも湯温が一番低いから長くいられる。1日2回も温泉に入っていてもうこの辺には慣れているはずなのに、女神の湯に2、3歩入ったところでバランスを崩し勢いで湯に飛び込んだ。周りに人がいなくて良かったと思う。あんなに大きな音と水飛沫が上がるとは予想外だった。咄嗟に湯の中にある石に手をついたので怪我もなく、露天風呂に飛び込むという珍しい体験ができた。

女神の湯の一部には屋根があるため雪を気にせず浸かっていた。屋根はしかし風景を遮るので針葉樹屏風を堪能できない。女神の湯から子宝の湯へと移動する。子宝の湯に浸かって2年目になるがまるで子宝に恵まれる気配がないので名前は変えたほうが良い。観察しているとこの湯に入る人は明らかに少ない。入っていくのは私くらいのものだ。理由はその名前に違いない。平たく言えば気持ち悪い名前だ。人間が単為生殖できる生物であれば、この湯はしかし人気になるだろう。

子宝の湯はぽかぽかの湯と女神の湯のちょうど中間かややぽかぽか寄りの温度であり、女神の湯から家移りすると熱く感じる。おととい星を見るために女神の湯に浸かりすぎて逆に寒い思いをしたので、長湯するなら子宝の湯が一番良いと学習している。ここには屋根がないからまた雪と対面することになる。性懲りもなく両手を湯から出し空へと向ける。気長に待っていたら小さな雪が2粒右手に着陸した。雪はあっという間に溶けてしまったが冷たさはややしばらく手の中に残った。あんなに小さくてもしばらくは痛覚を刺激するエネルギーを持っている。頭ではなかなか理解し難いが、1gの質量を持つ物体のエネルギーは本当に90兆ジュールあるのかもしれない。

露天風呂から戻るために立ち上がった。その頃にはもう霧がだいぶ落ち着いて風景にも色が戻ってきていた。笹には雪が積もっているものの、針葉樹や蕗はそれほど雪を被っていない。この違いはなんだろうなと思いながら外の世界を後にする。最後にはもうひとつの内風呂であるヒバの湯に浸かった。ヒバの湯は今まで熱くて手が出せなかったが、今朝は私でも入れる湯温だったためヒバの良い香りを嗅ぎながらこの日の風呂を後にした。

風呂場から寝室に戻る途中、雪が思った以上に降っていたことを知った。早朝は霧のために雪がどの程度降っていたのか目視できなかったが、今ならわかる。私は毎年この時期に十勝岳周辺を訪れているが、この一帯の表面が雪で覆われた光景を見たのは初めてである。スマートフォンを取りに行き、外に出て風景を数枚の写真に収めた。たしかに昨日は寒かった。雨が雪に変わったことに不思議はない。今年十勝岳の残雪は少なかったが降雪を見ることになるとは。


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