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『大地の芸術祭』(越後妻有アートトリエンナーレ)日記 1ページ目

ひょんなことから新潟県で3年に1度開催されている『大地の芸術祭』に行くことになった。前回観に行ったのは2015年だから9年ぶりとなる。前回は十日町の商店街とまつだいの方を見て回った。今回は知り合いの作品もあるし遠くまで足を伸ばそうと思っている。同じところばかり見ても面白みに欠ける。ただし知り合いの作品は遠い。もしかしたら車ではないと行けないかもしれない。それならば公共交通機関で行けるところまで行ってみるチャレンジの旅にしようと思った。

この文章は延べ4日間の旅路を後で思い出して書くのではなくできるだけその場で書く、つまり起きたことをできるだけ都度書く形式を取る。現時点で一日目の朝。

夜行バスで午前5時、長岡市に到着した。新宿から乗ったので乗車時間は短いし隣は無茶をしない人だったから車内では値段の割に快適に過ごせた。長岡駅で降りる際に靴を履いたら足がきつい。今晩は足を若干高くして寝ることを決意する。

バス乗車中は半分睡眠半分覚醒状態だったので諸々の施設が開くのを待つ間非常に眠かった。カフェインに弱い体質を逆手にとって朝一で駅のカフェに入りコーヒーを飲む。そして今予想通り覚醒し元気。気分も前向きになっている。

せっかく長岡にいるのだから長岡料理を食べたかったが、朝7時に開くVIE DE FRANCEの誘惑には勝てませんよね。パンが思ったよりも小さかった

今日は水曜日で大地の芸術祭はお休みなので長岡観光に出かける。長岡市立科学博物館がバス停から遠く雨の中を長時間歩きそうなので悲しみに暮れている。関東に住んでいた学生時代には気づかなかった梅雨に今回の東京滞在(2024年7月現在東京で個展をやっている)で気づいたのは我ながら収穫だった(同様に学生時代は台風にも気づかなかった)。駅の観光案内所が開くのは9時。どこまでここで粘れるか。コーヒーを飲んだからトイレも行きたい。

観光案内所で長岡の街歩き地図をもらった。今日は駅周辺の観光だけで宿に早く入って寝ると、持て余していた待ち時間の中で決めていた。まずは宿に荷物を置いて9時に開く「長岡戦災資料館」に行き、「アオーレ長岡シアター」で長岡花火の映像を観、「長岡震災アーカイブセンター きおくみらい」でたくさんの映像に触れた。一番初めに訪れたからか戦災資料館のインパクトが強かった。米軍の飛行場がグアムやテニアン、硫黄島にあったから北海道までB-29が行けず無差別爆撃を避けられていたことを初めて知った。

いや、でも札幌にも空襲あったし他の北海道の都市にもあったと思い調べたら航空母艦から放たれた爆撃機による攻撃らしい。札幌空襲による犠牲は1名だからか学校で札幌空襲については教わらなかった。今回改めて日本各地の空襲について学んだ。あれほどの犠牲を出しても原子爆弾が落とされるまで敗戦を認めなかったことに狂気を感じる。東京だけでも10万人で、祖母も20歳前後の時に大空襲を生き延びた。

きおくみらいでは中越地震の凄まじさに触れた。2004年はすでに大学生になっており東京に住んでいたはずだ。インターネットをまだ使っていなかったからなのか、中越地震がどれほどの規模でどれほどの被害を生んだのか私は全くわかっていなかった。南海トラフ地震で予想される被害の数字も改めて確認した。私が南海トラフで被害に遭うとしたらそれは全て旅人としてである。車はないし高台がどこにあるかもわからない。もちろん食料の備蓄もない。旅が死と隣り合わせという感覚は今までなかった。今後神奈川県から四国辺りを旅するときに少しでもこのことについて忘れないようにしようと思う。

昼ごはんは駅ナカのレストランで食べた。長岡名物を食べたいと思いつつ何が名物かはわからないので新潟まで範囲を広げた。その結果がへぎそばとタレカツ丼のセットである。

宿はゲストハウス、食事は豪華に

最近明らかに二重顎が増えた。太ってしまったのにお腹にパンパンに昼食を詰め込み「河井継之助記念館」へ。司馬遼太郎の小説の主人公でもあるとのことで映画化もされたようだけれど私は全く知らなかった。正直とりわけ興味があったわけではなく、宿のチェックイン時間のための暇つぶしだった。

記念館には河井継之助の等身大パネルが置いてある。それを見て55歳くらいかなと思ったら41歳で没している。同い年ではないか!私も他人からはこのように見えているのか……自己認識においては目の下のたるみがなくなり少し痩せれば30代に見えるだろうと思っていた。自分の中の強力な補正、あるいは願望について思うなどした。

いよいよ明日からは大地の芸術祭である。どこから観に行こうか。明日もこの日記が続いていることを願う。



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