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絵画における身体表象とデフォルマシオン、とか。(メモ)

今年2月に府中でみた諏訪敦先生展の余韻にひたってます。

あとから響いてくる展覧会、というのはなかなか稀有なので、以下、思いついたことをメモしてみました。

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まずは「写実主義」とはなにか、ということ。
美術史の授業の期末テストに出てきそうですが。

日本語の「写実主義」と「現実主義」は、両方ともrealism/ realismeの訳語だと思うけれど。個人的には、日本語レベルの「写実」と「現実」では、ニュアンスが異なると考えていて、それが、日本文化におけるこの分野への態度を端的に示しているとも思う。

「写」実が、写真的にソックリ、みたいなのに対して、「現実」は、現実そのまま、というより、そこに現実の生々しさとか厳しさとか、はたまた精神的な強さ、みたいなものとか、理想化の契機が含まれてくる。そこには概念化された「現実」があり、社会主義的リアリズム、みたいな展開もある、のだと思う。

ならば、「写実」とは、ある側面においては、「自然主義」naturalism / naturalismeにむしろ近い、とも言えるのかもしれないけれど、自然(有りのままの状態)を外的に観察、記述する19世紀フランスの科学的態度、には、同時に、この時代特有の自然美への態度みたいなものも含まれていて、現代的な意味での「科学的」態度ともまたずれてしまう気がする。

絵画は、そもそも錯視技術なので、画面の構成原理に従い、画面によりリアリティを感じさせるために錯視的な操作が駆使されている、のは当たり前であり、「写実主義」といって、現実の美術分野における絵画表現が、科学的に厳密な正確さを求めるわけではないだろう、とも思う。

そこから思うのは、そうした「写実性」「リアル」さに伴われる人間の身体のデフォルメとその契機というか、身体の変容が目指す地平とは一体なにか、ということ。

ようするに、なぜ身体はデフォルメされて表現されるのか、と。

たとえば、諏訪先生の絵画では、人物たちの四肢が、科学的な見地から見た標準的な人体の長さ(数十センチ〜2メートル超えくらい?)とくらべると、縦方向に引きかなり伸ばされて見えるなあ、と感じた。たぶん。。画面上で、(おそらく現実の身体以上に)プロポーションが絶妙に調和して違和感など感じさせないのだが、それ以上に思うのは、そこに調和を超えた何かが現出しているように思える。

さらにいえば、たとえば、レオナルドもミケランジェロの人物とか、リアルに見せながらデフォルメされた人物たちもそうだけど、これらの人物画、肖像画は、なぜ人体を引き伸ばす方向が、横ではなく、縦なのか。マニエリスティックな手法はなぜ縦でなくてはならないのか。

諏訪先生絵画でいくつも描かれた地面に水平に寝転がる人物像で、伏臥、仰臥にかかわらず、身体そのもの、というか四肢は、おもに縦方向にのびていた、気がする(まちがっていたらすみません)。

そんなの当たり前じゃん、手足が長いほうがかっこいいし見栄えがするしさ、、というのが、率直なところなのかもしれないけれど。

東方正教のイコンなどでも、様式的に描かれた聖人たちの姿は縦長にされて並んでいる。こちらのほうが、画面構成上、人物たちを配置しやすい(人物を横長に引き伸ばすと並べにくい?)からかな、とか、仏像とかも縦長かな、いろいろと考えてしまう。

とか言って、よりうがって考えれば、そこには、身体と世界の関係性が介在しているのかもしれない。と飛躍して考える。

たとえばエル・グレコの絵画が、ルネサンス期後の、新旧戦争とカウンターリフォメーションという時代背景、そして、バロック教会堂や礼拝堂の天井の高さ、という技術的背景とかが、条件決定の要素として分かち難くあるのかな、とあとづけ的に考える(このあたりの認識はかなり大雑把です。。)。

失墜した権威を復興し人心をとりもどそうとした当時のカトリック教会の依頼で、エル・グレコの絵画の多くは描かれたとされるけれど、クリアストーリー下の高い位置に設置された聖書物語は、祭壇とか壁龕とかの長細いフレームのなかにおさまっていて、会衆たちが顔を高くあげて、仰ぎ見られる仕組みになっている。

天上の世界をめざして伸び上がるようなバロック式聖堂のなかで、聖堂に会衆をあつめて、神の世界の光とその神秘で庶民を照らして神秘体験を促し、カトリックの威信を取り戻そうとする、そうしたイメージ装置であることが、南欧において、バロック教会堂と共に、宗教絵画がこの時代に量産された理由なのだろうな、という。

このとき、ひとびとはかなり頭を上に傾けていたと思う。
なので、エル・グレコの人物たちは、正面から見ると、なんだかとっても長い。そうでないと、下から見た時に、神の世界の神秘性、崇高性が表現されえない、下賤にいえば、かっこよくみえないし、かっこよくないと、誰もが憧憬は抱けない。

うーん。

とかいって、このように(どのように?)エル・グレコの描く、縦方向にデフォルメされた身体が、教会堂の空間と結びつきながら縦方向に行くのはなぜなのだろう。神学的には、きっと、天国は空にあるから?雲の影に神様とか天使がいたりするからです!、とか。。そんなのあとづけです、とも言われそうだけど。。

より問題となるのは、もしかしたら、カトリシズムがキリストの肉体として表象される身体性と、おそらく教義的に深く結びついていることなのかもしれないなあ、とか、思ったり。
ミサにおける聖体拝領とか、磔刑イメージとか、どぎついまでの肉体への執着が、そこにはある。そこでは、身体は常にデフォルメの対象であったりする、神秘は身体の変容を通してしか発現しえない、という、身体の聖性に対する畏敬があるのかも。

とかとか。。

絵画平面において、デフォルマシオン(形を崩すこと)の契機が、人間の身体におよぶときに、畏敬、異様をとりこみ、ある種の聖性が発生するのかもしれない。

(この場合、デフォルメされるのは、身体corpsであってモノobjetではない。モノの場合は、丸を楕円にするような、完全な状態を歪ませる操作としてのdeformerではなく、完全を不完全にする、つまりdétruire破壊を契機に、例えば廃墟美みたいな表象として結実するのかも)

そう思うと、諏訪先生の人物たちは、きっと現実に存在している、していた、人々であれ、絵画平面上でそんな聖性を獲得しているんだろうな、と思って、展覧会の残したおごそかな余韻に、ひとり静かに、納得したような、そうでないような。

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