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短編小説

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#自作小説

短編「ペーパームーン」

短編「ペーパームーン」

その街へはできれば行きたくなかった。

この仕事に就いてからそろそろ10年になるが、幸い、担当区域に選ばれたことはない。

しかし、運命というのは実に因果なものである。

この春、同僚の田中が東京支店へ栄転した関係で、俺はとうとう、その街を受け持つ羽目になった。

会社から辞令が下りた時、何だか過去に復讐されているような気がして、10年という月日の重みを、今更ながら感じた。

考えてみれば、あの女

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パリ左岸の夕陽⑧

パリ左岸の夕陽⑧

カフェ・ド・フロールは、1887年に創業され、戦中から戦後にかけては、実存主義者の溜まり場だった老舗カフェである。

知が花開き、研鑽の行われたその場所で、人々は機知に富んだ会話を交わし、あるいは、愛を囁やき合っていた。そういう雰囲気にあって、私たちは場違いな異邦人であり、明らかな余計者でさえあった。

それでも、私たちは自分たちの物語を完結させなければならなかった。カフェの特権的な雰囲気は、それ

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パリ左岸の夕陽⑦

パリ左岸の夕陽⑦

私が親父とお袋を伴ってフランスへ旅立ったのは、それから二週間後のことである。

わずか二週間あまりの間にどういう心境の変化があったのか、わざわざ書くほどのこともあるまい。

強いて言うなら、そこに感傷の入り込む余地は全くなかった。

私は、あくまでも、自分自身にケジメをつけるために、フランス行きを決めたのだった。

出発当日の朝、空は、私の決断を歓迎するかのように、どこまでも晴れ渡っていた。雲は風

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