言葉の可能性と限界(JaSPCANふくおか大会にて)
この週末、国際会議場で行われたJaSPCANふくおか大会。
https://www.jaspcan28.org/
子どもの野球の送迎が合間に入ったのと、ちょうどピルの休薬期間と重なってしまい体調は最悪だったけれども、それでもとても充実した二日間で、まだなんとなく熱に浮かされたような気持ちが残っている。
しっかり参加できたのは以下の3つのプログラム。
〇S-10「市町村における新たな家庭訪問型の親子関係形成・再構築支援を目指して」山岡佑衣座長
〇特別講演3「子ども虐待対応のパラダイムシフト:子どもと家族が意思決定の中心となるシステムを想像してみよう」Lisa Merkel-Holguinさん
〇S-72「家庭養育推進自治体モデルプロジェクトの意義と課題~3歳未満里親委託率75%と在宅家庭支援への挑戦~」上鹿渡 和宏座長
後は顔馴染みのみなさんの登壇をハシゴしながら覗かせていただいたたり、書籍やメディアでよく拝見するあの先生方がいっぱい…!とミーハー気分を味わったり、久しぶりの嬉しい再会もあり。
子どもの虐待をなんとしても防ぎたい、という熱い思いや、実際の様々な取組みとその評価、あらゆる情報が全国からこの場に集結しているという熱量があった。
一方で「虐待はあってはならない」ことが圧倒的正義であるこの場で、実際に子どもを一時保護される親の当事者としてのリアル、あるいは虐待を受けた当事者の、ダイナミズムとしての生、といったものをどれほど表象・共有することができるのか、場としての構造的限界があることは否めない。
さらには、虐待予防にも様々なパラダイムが存在し、決して一枚岩ではない。日本では「施設か里親か」という状況が長らく続いてきたけれど、選択肢がそれだけではないことも視点を変えれば見えてくる。
私は曲がりなりにも(?)、社会学(文学)で修士号を取得して、『言葉』が持つ力を信じている属性の人だし、こうして言葉を交わし合うことが少しでも社会を良い方向に導くのでは、という希望をどちらかといえば持っている方だ。
それでも、言葉で表象できる、相手に伝えることができるのは、実際に起きていることのほんの一部なのだという自戒は、常にどこかにある。
言葉の持つ力は、誰かを救うことも傷つけることもある。伝えたかったメッセージとは別のことを相手が受け取ることも往々にしてある。言葉にしたことで失われていくなにか、もきっとある。
それでも、失うことを覚悟しながら言葉にすること。そして、容易には受取りがたい言葉に出会ったとしても、どんなバックグラウンドからその言葉が発せられたのか、想像したりもう一度受け取ることをあきらめないこと。その積み重ねが、きっと「誰かと生きる」という人間の営みを少しずつ豊かにしてくれるだろう。
言葉のもつ可能性と限界、両方を感じた二日間だった。