やさしさと差別的であること
2021年2月17日FB投稿
女性蔑視という言葉は、なんだか響きが強すぎて、自分の書きたいことや伝えたいこととあまり相性がよくないのだけど、ほかに選択肢がないのであえてそう表現しようと思う。
やさしいことと、女性を蔑視しないこととはあまり関係がない。やさしくて、女性蔑視をする人は結構な割合でいる。よかれと思って女性への声かけをするけど、だいたいピントがずれている。
生々しくなりすぎないように、どこか日本ではないとある国の夫婦の会話という設定で進めてみる。
ナンシーとパトリック(ジョンとベティでもドルチェ&ガッバーナでもなんでもいい)は、結婚して3年後に子どもが産まれた。待ち望んでいた子どもで、二人はそれまでケンカ一つしたことのない仲良し夫婦だった。明るい未来しか見えなかった。
子どもはとてもかわいい女の子で、すくすくと育った。でも産後というのはとにかく修羅の連続で、二人は何度となくぶつかった。
赤ちゃんの夜泣きで疲れ果てたナンシーに、パトリックは、疲れたんなら君のお母さんの家に子どもと帰ってゆっくり寝てきていいよ、といった。
仕事に復帰したナンシーが、子どもの発熱が続き、どうしても穴を開けられない会議の日に子どもを見てほしいと頼んだら、パトリックは眉間にシワを寄せながら手帳を開き「うーん、明日はちょっと、どうしても…無理だね」といった。
またあるとき、夫婦だけではこの難局を乗り切れないと思ったナンシーが、シッターサービスを使うことを提案すると、パトリックは顔をしかめていった。「子どもを他人に任せるなんて、かわいそうだろ?僕も出来るだけ手伝うから」
そして、かみ合わない会話の末に、ナンシーは気づいた。私を目の前に議論していても、この人は私を透明人間のように通過して、「世間」の方をみて話をしているのだと。
世間とはすなわち、会社とか上司とか友人とか、彼の日々の生活を取り巻いてきた価値観や関係性のことだ。
パトリックはとてもやさしい人だった。正義感が強く、真面目で几帳面で、困っている人がいたら考えるより前に行動するような。
そんな彼をもってしても、目の前の相手が今何を感じ、何に困っているのかを見えなくさせるのが「構造」の力だ。
男性が優位性を示したいのは、女性にではなく他の男性(=世間)に対してであり、その目的を遂げるうえで、女性をいくつかの役割に押し込めてきたのだ。
やさしいかそうでないかというのは、目的に向かって突き進むために、目の前にあらわれた障害物を、乱暴に突き飛ばすか、やさしくわきによけるかぐらいの違いでしかない。
そしてこのやさしい排除が、議論をかみ合わなくさせるのだ。
ここまでかいて気づくことがある。男性をおとな、女性を子どもに置き換えても、この文脈はまったく違和感なく成立するんではないか?と。障害者差別や民族差別など、あらゆる差別の礎には、子ども差別と女性差別がある、という。私のなかにも、もちろん差別が潜んでいる。子どもには自分の意思があり、エンパワメントな関りさえあれば、自分にとってよりよい人生やあり方に自分の力で近づいていこうとする力がある、ということが見えなくなるときがある。でもそのことに気づくには、自分の権利が大切にされてないと難しいものだ。
そしてこうも思う。社会構造の問題でありながらも、私の問題は私のものだ。誰かが作ってくれた、ジェンダーやフェミニズムの概念で戦おうとしても、それが私のナラティブと撚りあわされたものでなければ、私の問題解決にはならない。
カスタマイズされてない解決法は、いずれサイズがあわなくなり、使えなかったコンテンツとして、思考の隅に追いやられるだろう。通販で買ったダイエット器具のように。
何度も森さんを引き合いに出してちょっと申し訳ない気分なのだけれども、彼が会長辞任を決めた後の会見で話した内容も、とても興味深かった。
森さんは、自分は「女性のみなさんをできるだけたたえてきた」し、種目における男女比率を半々にすることについて、「ほぼ完ぺきな仕上がりができた」といった。女性のみなさんに発言してもらえるよう絶えず勧めてきており「女性のみなさんには本当によく話をしていただいた」といった。でも、それぞれの女性の発言がどのようなものだったのか、その発言によって自分の考えがどのように変化し、議論がまとまっていったのかについては一切触れなかった。
一方で、バッハさんとの会話については「よくここまでしっかりやってくれた、これはまさに東京2020の大きな成果だ」という、バッハさんからかけられた具体的な文言までを公にしており、彼の中で、「自分の成果(完ぺきな仕上がり)について」「男性あるいは権威的な存在からの承認が得られる」という動機付けが、とても大きな意味を持つものだったことが分かる。
森さんは、どんなに分が悪い場面でも、きちんと自分の言葉でしゃべる。誰かが代理で作った、当たり障りのない謝罪文などを読み上げたりはしない。その率直さや潔さが、彼がこれまでいろんな場面でリーダーシップを発揮してきた所以なのかな、とも思う。そのよいところが、女性も男性も高齢者も子どもも障がいのある人も、生きづらさを感じているすべての人たちが生きやすい社会になるように生かされてくれるといい。ここまでいうとお前は何様だとお感じになる方もいるだろうが、森さんが何様でもない私の意見に耳を傾けてくれるようなら、エンパワメントな社会に向けてちょっと希望が湧いてくる。
なにが必要かと考えると、やはりなにかをきっかけに起こったフォーラムの場を終わらせないこと。対話を続けること。なかでも、これからは、男性同士でこの問題について話し合うステージに進んでほしいと願う。
男性を中心としたコミュニティで認められないということが、人としてのアイデンティティを揺るがされるくらい恐ろしい、あってはならないことだと、様々な場面で刷り込まれてきた男性自身もまた、この社会の隠れた被害者ともいえるからだ。
自分たちの価値は、いくら稼ぐかや、大きな会社で働いてるか、どんな役職につくかということだけじゃない。かけがえのない子どもの育ちを近くで見守ることや、食事づくりなど生活に必要な知恵を身につけて、今より健康な日々を送ること、一緒に暮らすパートナーが生き生きと、ちょっと今よりいい未来に向けて行動を起こすのを目の当たりにすることも、これから長く続く人生の喜びのひとつだということを、確認しあえるような場がたくさんできたらいいと思う。