神原駿河を論理立てる。道徳的議論、自然主義の誤謬
化物語シリーズの『終物語』について。神原駿河の論理性を検討します。エピソード11の、この会話。
私が気になるのはここの部分。「400年がかりで蘇ったかつてのパートナーと会わずに済むなんて、それは良くないことだ。とても良くないことだ。それは正しくない。」と言う神原に対して、忍野忍が「少しくらい論理立てて喋れ。」と返したところ。
「論理立てて喋る」とはどういうことでしょう。この場合、神原はどのように「論理立てて喋る」ことができたでしょうか。
1.論理立てて喋るとは。論理性の必要条件
「論理立てて喋る」とはこの場合、「『400年がかりで蘇ったかつてのパートナーと会わないのは良くないこと』の理由を示せ」という意味になります。なるほど、確かに神原の主張には、理由による支えが抜けていますね。
「論理立てて」とは「論理的に」ということ。「論理的」であるには「最低限、これだけは守ってほしい」という条件が2つあります。それは「主張があること」と「主張を支える理由があること」です。論理は主張と理由があって初めて現れます。理由の支えが無ければ、主張は論理性を帯びません。例えば
これらの主張にはどれも理由による支えがなく、論理的でありません。これらを論理的な意見にするには最低限、理由で支えることです。
こうして理由をつけることで、主張と理由との間に論理性が生まれます。「なるほど」という説得力を感じますよね。理由を言われれば、どうしてそのような主張をするのか、そのような主張がどこから来るのか、等の背景が浮かび上がる。それによってコチラ側も判断をしやすくなります。「犬をほしい」というのは妥当な意見なのか、「会社を休む」というのは認めるべきなのか、「夕飯に肉野菜炒めを作る」のは正しいのか。相手の主張を認めたり、否定したりの判断がしやすくなる。
神原は主張します。「400年がかりで蘇ったかつてのパートナーと会わずに済むなんて、それは良くないことだ。とても良くないことだ。それは正しくない。」と。ですが主張するだけで、その理由を示せていない。これでは言われた側は納得できません。忍野忍は「かつてのパートナーと会いたくない」という主張の持ち主。忍野忍の気持ちを180度変えて「かつてのパートナーと会うべきだ」と考え直させるには、論理でもって説得するしかありません。
主張には理由をつけるようにしましょう。主張に理由をつけない人は、相手から見下されかねませんから。
論理的な思考が身についている人は、相手にも論理性を求めます。普段から論理的な話し合いに慣れ、自分でも理由や根拠でもって主張するクセがついている。そんな人は、非論理的な話し合いを嫌います。論理がなくては何を基準に話し合いをすればいいのか分からないのです。論理があれば、どちらがより説得力のある議論をするかで良し悪しを判断できるので、話し合いをする意味が見出せます。けれど論理が無いのであれば、妥協点や納得するしないの基準が見つけられず、話し合いをするだけ無駄だと感じるのです。求めるべき論理性が相手に認められないと、その人は「話し合いの土俵にすら立てていない」と判断されます。
論理的でなくては、相手から「議論できる相手」とすら見なされない可能性があるのです。
2.神原駿河はどのように論理立てるべきだったか。道徳的議論
神原駿河の主張を見ていきます。
この主張を支えるには、どのような理由が考えられるでしょうか。この主張は「良いか良くないか」「正しいか正しくないか」を問題にしているので、道徳的な判断と言えます。道徳的な主張を支えるには、より一般的な道徳的判断を前提に持ってくることが必要です。
多くの人が受け入れていて、より社会に浸透してる道徳的規範。それを理由として提示することで、道徳的主張に説得力をもたせます。しかも、その道徳的規範は、自分の主張が当然に導き出せるようなものでなくてはなりません。例えば、次のような道徳的意見。
「出勤したら挨拶をしなさい」が主張で、「良好な人間関係があってこその職場だ」が理由。「良好な人間関係があってこその職場だ」は、一般的に認められている道徳的規範と言えます。「良好な人間関係があってこそ、職場は機能する」という意見には、誰もが納得するでしょうから。そして「出勤したら挨拶をしなさい」は、この道徳的規範から導けます。職場で良好な人間関係を作ろうとするのであれば、出勤時に挨拶をするのは良い方法です。「良好な人間関係があってこその職場だ」を認めたら、「出勤したら挨拶をしなさい」も認めざるを得ない。
このように、道徳的主張を支える理由は、より一般的に認められている道徳的規範である必要があるのです。
もう一つ例を出して説明します。
この意見も「〜するべき」と言っているので、道徳的主張です。「勉強しなさい」という道徳的主張を支える理由が、「進学するには成績が良くなくてはなりません」です。「進学するには成績が良くなくてはならない」というのは、多くの人が認める判断でしょう。現代日本の進学システムにおいては、成績の善し悪しによって進学できるかできないかが決まります。なので、「進学するには成績が良くなくてはならない」という判断には多くの人が納得するはず。そこから「勉強しなさい」が導かれます。成績を良くするには勉強する必要があるので、「進学するには成績が良くなくてはならない」を受け入れたならば「勉強するべき」も受け入れざるを得ないのです。
神原のこの主張も、道徳的主張です。この主張を支えられる、より一般的な意見は例えば次のようなものです。
一般的に、相手の気持ちを踏みにじるのは悪いことと考えられます。例えば、せっかくプレゼントをもらったのに「要らない」と言って返しては相手に申し訳なく思いますし、「一緒に帰ろう」と言われて「嫌だ、一人で帰れよ」等と断るのは「相手に悪い」と誰もが思うはずです。「相手の気持ちを踏みにじるのは良くない」のは、一般的に認められている規範的前提。そして、ここから「かつてのパートナーと会うべき」も導かれます。相手が「会いたい」と思っているにもかかわらず、会わずに済ませてしまえば、それは「相手の気持を踏みにじる」ことになり、規範的前提に反するのです。一旦「相手の気持ちを踏みにじるのは良くない」を受け入れてしまえば、「かつてのパートナーと会うべき」も受け入れざるを得ない。規範的前提によって、「かつてのパートナーと会うべき」という主張に論理性が宿ります。主張を支える説得力のある理由になるのです。
それから、こんな理由も考えられます。
これは、「400年がかりで」に的を絞った理由です。400年もかけて蘇るなんて、相当な苦労だったはず。確かに「散った灰が風で寄り集まって磁石のように励起しただけの自然現象」なのかもしれませんが、その間に「意識が無い」とは言い切れません。もしかしたら灰の状態でも意識があり、400年の間、ひたすら蘇ることを願っていたのかもしれません。400年かけて少しずつ少しずつ、「蘇る」という希望を成就させていった。そうであれば、かつてのパートナーには相当な苦労があったはず。そのような大変な苦労をした者には、報いてやるのが人としてのモラルでしょう。「大変な苦労があった」と聞けば「大変だったねえ」と共感し、施しを与えたいと思うのが大方の人の心。相手の苦労に報いてやるべきです。
そして、ここから「400年がかりで蘇ったかつてのパートナーと会うべき」が導けます。苦労して蘇ったパートナーが「会いたい」と望んでいるのにそれを拒否しては、報いてやることになりません。会うことが相手の苦労に報いるのであれば、会うことが道徳的に正しい。
「相手の苦労には報いてやらなければならないから、だから400年がかりで蘇ったかつてのパートナーと会うべき」なのです。
3.「自然だから」は理由になり得るか。自然主義の誤謬
本記事冒頭の言い合いの中で神原駿河は、次のように理由らしいことも言っています。
これは次のように解釈できます。
このように、「自然だから」という理由で主張を正当化できるでしょうか。例えば
「『楽をしたい』と思うのは自然だ。だから、楽をするのは悪いことではない」
「バラが赤いのは自然なことだ。だから赤いバラは美しい」
これらは正しい議論でしょうか。
正しい議論ではありません。正当化できません。次のような反例を示せるのです。
胸クソな例で申し訳ないのですが、以前、「光市母子殺害事件」という許しがたい事件がありました。平成11年に山口県光市で発生した、殺人・強姦致死事件・窃盗事件。当時18歳だった犯人が、アパートに侵入して20代の母親と生後数ヶ月の赤ん坊を殺しています。その犯人は逮捕後、拘置所から友人への手紙の中で次のような文章を書きました。
つまり犯人は、「(動物のように)自然な欲情である」ことを理由に、自身の強姦致死行為に正当性をもたせようとしたのです。いくら自然な欲情だからといって、殺人等が認められるとは誰も思わないでしょう。「自然だから」という理由では、主張を正当化できないのです。
「自然である」ことを理由に意見を正当化しようとしたり、「自然である」ことを理由に物事に価値を見出そうとしたり。このような判断は「自然主義の誤謬」と言われています。
『終物語』においても、神原は「誰かが誰かを好きな気持ちは自然であり、否定できない」ことを理由に、「だから、その自然な気持ちには応えるべきだ。」とは言えないのです。
4.まとめ
とうわけで、道徳的な主張(〜するべき)に論理性をもたせるには、より一般的に認められている規範的前提から結論を導けるようにすると説得力が出る。
それから、「自然だから」という理由で結論を支えようとするのは自然主義の誤謬である、という記事でした。
『終物語』のエピソード11を見て、「これを作ったアニメーターは論理をわかっている人なんじゃないか」と思った場面があります。
このセリフを話した時、神原は言いづらそうにしていました。まるで神原自身、物足りない意見であることがわかっているような喋り方。そうなんですよ。非論理的な意見は、ときに物足りなさが露呈します。何か足りないような、どこか不自然なような、なぜか喋りづらいような、そんな話し方になる。それはもちろん、理由が足りないからです。特に予想もつかないような突拍子もない意見を相手から言われる時、私たち人間は自然と理由を求めます。主張に続いて相手が「理由も言ってくれるのだろう」と期待してしまう。突拍子もない意見を言う側も、「理由も言った方が良いんだろうな」「理由が欲しいな」と感じてしまう。理由が必要な発言なのに理由が無いと、その意見はどこか舌っ足らずに感じるのです。神原の意見には論理性が無かった。しかもその意見を言うときに舌っ足らずだった。このことは、「論理的でないと意見に物足りなさが表れる」という論理の側面を、わざとアニメーターが表現したのではないでしょうか。
なので、「これを作ったアニメーターは論理をわかっている人なんじゃないか」と思ったのです。