「自分」とは何者なのか
扉画像出典:堂本 剛 祈望 平安神宮 奉納演奏史
DVD DISC2 2015『PINK』 JEBT-0006
「自分」とは何者なのか
それは人生における最大の哲学であり、僕らは常に自問自答を繰り返しながら闘っていかなければならないのだと思う
僕が自分自身の過去の傷から紡ぎ出した想いは、これまでの記事で何度も述べてきた
「自分の経験を誰かに伝えていくことで、その人の背中を押すことができたら嬉しい」
そして自分のやりたいことを仕事にすることができたと思っていた
しかし現実はそう上手くいかない
堂本剛「今自分のやりたいことやれてますか?」
僕は「やれているとも言えるし、やれていないとも言える」と答えるしかない、実に曖昧ないまを生きている気がする
自分がなりたくてなったはずの仕事だが、枝葉末節にこだわりすぎて本質を見失っている瞬間を目の当たりにする度、「こんなことをするためになったんじゃない」と思うことは多々ある
生来の不器用さのために、人に迷惑を掛けてしまう場面も多々ある
仕事を離れプライベートでできることも限られてくる
そもそも休日が少ないし、家に持ち帰らなくては終わらない仕事もあるし、場合によっては急に電話が掛かってきて呼び出されることもある
そうなると大概は家から出られない
「仕事があるから、立場があるからできない」と、常に仕事に縛られている
もちろん仕事をしなければ食うことはできないから、生活の中心になるのは当然なのだが
それを楽しみ、本来の自分を出していられるかといったら、100%はできていない
では僕が仮に全てのしがらみを捨て去ったとしたら、何が起こるのだろう
恐らくだが、僕は16年前の姿に戻ることになる
「自分は何故生きているのか」と毎日疑問に思い続け、死を望むようになる
一方で、である
今年は新しいことをやらなければならない状況になり、責任という重圧と大量の事務作業に忙殺されそうになっていた
しかし仲間達は皆同じ方向を向いていて、僕が困ったときには親身になって相談に乗ってくれた
自分の存在が周囲の人を動かし、大きな行事を乗り越えた充実感、今まで見たことのない景色を見ることができた感動を得た
この仕事については「信頼されたい」と思ってやっていたことは、ただの一瞬もないことを断っておく
「やらなければならないからやった」ただそれだけだった
結果どうなったかと言えば、さらに良いものにしていきたいと意気込んでいる自分がいる
そこにまた新しい自分を見出すことになる
人が嫌い、信用できないと思っていた過去の自分とは正反対の、人が好きで、信じたいと思う自分を
大きな仕事を終えた充実感の後で、一人に戻ったとき急に寂しくなり、どうしようもなく人恋しい感情に襲われたのだ
孤独には慣れているつもりだった
それなのに何故だろう
本当の自分は寂しがり屋なのか
それが8月中旬で、自分の中に積もっていく感情と言葉を吐き出す場所として、または誰かと繋がることができればと思った僕はTwitterを始めた
本名も素性も明らかにしていない以上、所謂「裏垢」的な性質を多分に持っているのだが
一部の人とは実際に会っており、その人同士では表の性質も併せ持っていると言えよう
それでも自分の素性は明らかにしていない
見せる必要がないと言えばそれまでだ
ただ、SNSであっても僕は「自分」でいたいと思った
ありのままの「自分」で
思ってもいないことは現実でもSNSでも言いたくない
自分を偽るようなことは、したくない
自分がこういう人間であるということを示し、頭の片隅にでも置いてもらい、もし何かのときに一歩を踏み出すきっかけとなれば、それは僕が生きる理由になる