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明治維新の財政問題

冒頭の写真は「大日本帝国政府日本銀行全景」である。明治政府が成立した後の大混乱は、政治的には西南戦争(明治10年)をもって落ち着き、金融的には日本銀行の設立(明治15年)をもってようやく山を越える。本稿では、その足跡をたどりたい。

鳥羽・伏見の戦い|左大臣どっとこむ

幕末、鳥羽伏見(京都郊外)にて戊辰の戦いが切って落とされた。わずか4日間(1868年1月3日~)で幕府軍は敗走。空威張りだった幕府軍に対して、最初から戦を仕掛ける気だった新政府軍の作戦が功を奏した。そして同月末(1月29日)、新政府は商人を集めて、「300万両」の拠出を要請。江戸時代であれば「御用金」と呼ばれていた資金である。用途は、江戸に攻め入って幕府を倒すためだ。この資金集めを主導したのは(あの坂本龍馬が)越前藩から招きいれた由利公正(光岡八郎)だった。ちなみに、由利の要請に応じ、積極的な資金拠出を行ったのが、三井家である。この後、三井家は政府の御用商人として、急成長し、日本の財閥の一翼を担っていく。

三井の歴史 [明治期]幕末維新と三野村利左衛門

さらに、新政府の財政欠乏を解消するため、由利は、不換紙幣である太政官札の発行(総額、4800万両)に踏み切った。金銀が手元にない中で、「いちおう、正貨と交換する予定」と強弁した。この紙幣は、諸藩に貸し出され、新政府に利子をもたらす予定だった。全国に3000万両も貸し付ければ、毎年300万両ずつ、13年かけて返済されてくる計算だった。つまり、先の御用金などは難なく返せるのだ。ところが、戦費を含めた物入りが続き、2500万両が明治政府の歳出に当てられてしまう。そのため、太政官札の資金は諸藩に回らず、そして利子をつけて戻ってくる目処も立たなかった。

太政官札|Wikipedia


それはともかく、戊辰戦争では、江戸城を無血開城させ、徳川家の領地を没収した。これで、新政府の直轄領も860万石になった。また明治2年には「版籍奉還」、明治4年には「廃藩置県」と、立て続けに大改革をやり遂げ、中央政府としての財政基盤整備を急いだ。しかし、太政官札は、なかなか流通しない。物品交易を束ねる商法司を設置したが、これにも失敗し、由利は失脚することになる。

他方、諸藩の財政は火の車だった。せっかくの資金融通も、戦争の戦費返済に使われるだけ。金兌換の裏付けがない紙幣は、諸藩から都市部へと戻ってきてしまった。おかげで交換比率が悪くなり、インフレを招くばかり。本来の、経済のパイを増やしていく役割は担いきれないままだった。逆に、当時市中に流通していた様々な金属貨幣の方が支持され、紙切れにすぎない太政官札は嫌われてしまう。やむを得ず、新政府も、太政官札の強制流通に何度か踏み込み、市中は大混乱した。金融問題は、新政府にとってのアキレス腱となり続けた。


政府の財政(1877~78)|日本近現代史のWEB講座

新政府が、財源対策として意を決したのは秩禄処分だった。幕藩体制が抱え込んでいた(旧藩の)世襲武士たちをリストラすること。その秩禄は国家支出の3割をも占めていた。これを、段階的に削減。そして明治9年には秩禄を廃止してしまった。彼らのうち、明治政府の官職にありつけたのはわずか16%、その大半は、市中に放り出されたことになる。

新政府はこれにとどまらず、(版籍奉還を通して)継承したはずの(旧藩の)借金を(事実上)踏み倒す。それは藩債の8割にも及んだ。具体的には、1843年以前のものは破棄。旧幕府や個人に属する負債は償還しない。そして維新以前の旧債は無利子50年償還と定めた。これにより、多くの豪商が破産した。江戸の幕藩体制を支えた武士と商人は、明治維新を通して(利用されるだけされて)泣き寝入りを強いられたのである。

その代わり、明治政府は新しい職を創造して雇用の受け皿にしようとした。そのために認めたのは、四つの規制緩和である:
1)職業選択の自由。
2)交通の自由。
3)居住移転の自由。
4)土地売買の自由。
今日的には、どれも当たり前の「自由」だが、江戸時代の農民は(原則として)その土地を一生離れることができなかった。なぜなら幕府は、農民を田畑に縛り付け、米の生産を最優先としていたからだ。しかし米ばかりを作っても人々の生活は豊かににならない。社会の必要に応じて、農民や旧武士たちが、新しい役割を担うように求められた。

身分の流動化にともない、税制改革も必要になった。それが地租改正だ。土地代の3%と定め、(実質)収穫米の34%程度を納めればいい水準だった。この制度なら、多くの収穫を上げた農民は、増えた分を自分の懐に入れることができる。つまり農民にインセンティブの働く仕組みだった。また、地租改正は、現金納付を前提としたため、農作物も自由に選択できた。こうして、政府の財源問題と社会の経済成長を誘う基本的な体制が整ったのである。


ここからである。明治2年、政府に新しい司令塔が立ち上がった。「民部省改正掛」だ。伊藤博文と大隈重信が中心となり、渋沢栄一も加って、前代未聞の大改革が始まった。鉄道建設を進めたのも、郵便制度を創設したのも、そして官民共同の養蚕事業(のちの富岡製糸場)に着手したのも、この改正掛だ。さらに、会社制度の確立や、戸籍の整備、四民平等の徹底などを成し遂げた。度量衡の統一にも関わっている。


明治の前半期は、インフラ整備が急速に進んだ期間である。この時代も、(今日と同じように)情報通信は重要だった。郵便に続き、電信線の敷設も始まった。明治10年ごろには、全国主要都市に電信線網が行き渡るほどの速さだ。1854年に、あのペリー提督から献上された実験用の電信機が、わずか20年後には、日本全国に敷かれたことになる。明治45年には4744の電信局が設けられ、その数は隣国・中国の565局をはるかに上回った。

ペリー提督が幕府に献上した電信機の複製|KDDIトビラ

電信に続き、電気の開通も重要だった。明治16年に「東京電燈」会社が設立される。最初の電気供給先は、外国人をもてなす鹿鳴館だった。実は列強にとっても電灯は目新しいものだった。なぜなら、エジソンが電気事業を始めてまだわずか7年の頃である。そのタイミングで明治政府は同様の試みに着手していたのだ。ここから、発電所が全国に次々と建設された。火力から始まった発電所は、水力にも広がり、電気料金を引き下げることに成功している。

ついでに、鉄道延伸の数字にも触れておこう。明治5年、新橋・横浜間に開通した鉄道は、約29キロ。区間の一部(高輪や神奈川付近)では海の上を走り、庶民を驚かせた。莫大な費用がかかる鉄道を、果敢に広げようとしたのは、伊藤・大隈の名コンビだ。外国で公債を発行(資金調達を)してまで、建設を急いだ。明治14年には、岩倉具視らが音頭を取り、華族の資金を元手に鉄道会社(日本鉄道)を設立。その後、多数の私鉄が誕生した。明治39年にはそれらの多くを統合・国有化し、国鉄を誕生させている。民から公へ。鉄道は他の産業とは逆を行った。その翌年、鉄道の延伸距離は9000キロを越える。鉄道への投資は、日本の全工業への投資(資本金払込額)を越えるほどになり、ここに鉄道王国・日本の台頭が見て取れる。

広重『高輪の海岸(東京名所図会)|Business Insider Japan


こうした殖産興業を柱とした日本の経済成長は、民部省改正掛の寄与したインフラ整備の基礎の上に動きだしていた。改正掛そのものはわずか2年しか存在していなかったが、称賛に値する働きだった。そしてみるみる短期間のうちに、日本製品が世界市場に食い込んでいけたのは、江戸時代からの特技「生糸」を活かしたからだ。幕末にはすでに、主要な国際輸出品になっている。格安で品質のいい日本産の生糸は、とりわけアメリカで重宝された。それがやがて紡績業につながる。その先導役を担ったのは渋沢栄一が手掛けた大阪紡績である。

山川出版社「詳説日本史」|日本近現代史のWEB講座

明治政府が優れていたのは、海外勢の経済侵略を安易に許さなかったことだ。列強の圧力に負け、外国企業に国内市場を牛耳られてしまってはその後の発展がない。生糸の輸出から、紡績へと進化させた。また、もうひとつ具体例を挙げるなら、海運だろう。欧米の蒸気船に対抗し、明治政府が汽船を購入。それを民間に払い下げ、海外との価格競争に打って出た。競り勝ったのは、日本の三菱商会である。同じようなビジネスモデルで、他にも世界市場に打って出る会社を増やし、今日の総合商社という業態を定着させた。外国人のやりたいようにさせない、それが明治政府の気概だった。


しかし、殖産興業のネックは、やはり金融だった。冒頭の話に戻るが、明治政府はとにかくカネがない。新紙幣の発行で、歳入を確保しようとしても、金銀との交換の裏付けがない紙幣は広まっていかない。海外から技術や設備を導入しようとしても、やはりカネが必要だった。幕末期、(幕府の失政によって)大量の金がすでに海外へと流出したこともあり、明治政府の苦悩を深くしていた。また、幕末、諸藩によって大量に製造された贋金が、外国商人にも渡っており、列強から賠償請求を食らった。このままでは、政府瓦解の危機にすら発展しかねない。

金貨の大量流出のカラクリ|貨幣博物館


明治5年、政府は「国立銀行条例」を制定し、民間の資金力を紙幣発行の基礎にしようと考えた。国立銀行は資本金の4割を正貨(金貨)で準備し、1.5倍の通貨を発行できる権限が与えられた。残りの6割を市中に融資させた。この仕組みは、民間の正貨を担保として、兌換紙幣を発行するものだった。ところが、ここでも、人々はやっぱり正貨を求めた。

そこで明治政府は条例を改正し、兌換義務を追わない紙幣を認めることにした。また、その担保に、公債の組入を許可した。たとえば、金禄公債、つまりは日本全国の華族や士族に支給されたいわゆる「退職金」のようなものだが、彼らはこれを元手に第十五国立銀行を設立。華族銀行と呼ばれた。同行は、のちに日本鉄道株式会社を設立する。その他、銀行の数は次々増え、153行までになった。紙幣は各地で増発され、日本の金融はようやく安定に向かうかに見えた。しかし、西南戦争の勃発(明治10年)で、従来の問題が再噴出した。激烈なインフレである。

西南戦争後のインフレ|週刊エコノミストオンライン

本稿最終テーマの、「松方デフレ」で締めよう。松方正義は、大隈重信の失脚を受けて、明治14年大蔵卿に就任した。デフレの名の通り、一時的な緊縮財政に打って出る。紙幣の流通促進に躍起になっていた政策を止め、不換紙幣の発行を抑えることにした。何しろ、明治10年に起きた西南戦争で、軍費は歳入の80%に達し、不換紙幣の増発が強制的になされていた。これが尾を引き、当時の日本は強烈なインフレに見舞われていたのだ。紙幣を有した商人たちは、それで海外の品を買った。海外に支払われるのは正貨である。つまり、結果的に、日本国内の正貨量が急減し、国家の困窮化を招いてしまうのだった。

松方正義|Wikipedia

松方は、人々の不興を覚悟で増税に踏み切った。醤油税・菓子税・煙草税・酒造税など。また官庁経費も徹底的に削減。さらに横浜正金銀行の海外荷為替業務を始めさせ、輸出業者に正金を支払わせた。業者はその代わりに政府紙幣を借りることができ、運転資金に当てられたのである。松方の政策は、急激なデフレをもたらしたが、正貨を蓄積させることに成功した。こうして、西南戦争の混乱をいち早く収拾させた。

日本銀行百年史

そして松方にとって一番の目論見は、中央銀行の設立だった。三井・安田両銀行を参画させ、国立銀行に取って代わる日本銀行が誕生した。国立銀行券は20年かけて償却され、日本の通貨発行は日本銀行に独占させた。明治27年、日清戦争の勝利で得られた賠償金をもとに、明治29年にはみずから総理大臣となって、金本位制を導入した。為替や金融を安定させることがどれだけ大切か、松方は結果をはっきり示し、その後の経済成長へと日本を導くことになった。

今日、金本位制を採る国はない。しかし、当時の世界の常識はまさに「金」の保有量を基礎にして、通貨の価値を裏付けることだった。その安定があってこそ、人々は安心してお金を運用できる。明治の前半15年は、前代未聞の社会変革を進めながら、そんな近代金融システムの確立を模索した時期でもあったのだ。


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