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自分にとっての"ちょうどいい"

昔から、性格的にも自分の性質的にも、人に頼ることが苦手で。

(とはいえ、学生の頃までと比べたら、多少は周りに頼ることもちゃんと念頭に置くようにはなったと思う。)


自分にとっては、"人に頼る"ことが簡単なことではなかった。だから、無理してでも遠回りして一人で何とかしようとしてしまうことが大半だった。でも、それがかえって周りからの誤解を招いたり、信用されていない、信頼されていない、と思わせてしまうことも山程あったと思う。


ただ一言、"助けて"や"お願い"が言えなくて。


随分と遠回りばかりしていた。


このくらいのことで、人に頼っちゃいけない。

このくらい、自分でなんとかなる。

誰かに助けてもらわなくても、大丈夫。


大体いつも、そう思っていた。


でも、時に、どうしても分からないとか、聞かなきゃいけないとかいう場面があると、またそこで変な抱え込みが発生する。

そして、分かっているものだと思われているけど、実は分からない。なんで、もっと早く言わないんだ?分からないことは分からないってちゃんと言ってと言ったよね?分からないことを分からないと発信することができなければ、先へは進めないよ。SOSは早めに出してね。


恥ずかしいことに、本当にそれが苦手だった。

すぐにでもかなぐり捨ててしまえばいいような、変なプライドが邪魔をしたりしていた。

恥ずかしいことに、それは大人になった今でも正直ある。


素直なのか、素直じゃないのか、どっちなんだ。って思うことが沢山ある。


変なプライドみたいなものって、厄介だ。

迅速な判断や意思決定を鈍らせ、邪魔をする。


学生時代から社会人の今までに、沢山の人を頼り、助けられ、支えられて進んできた。


その中で、自分の一つ一つの感覚にセンサーを向けて見る。

すると、なんとなく気付いたことがあった。


ちゃんと人を頼ることができる人は、本当に強い人、ちゃんと成長できる人だ。

でも、"人に聞く"と"人に頼る"。

つまり、"相談する"や"頼る"。

これは、社会において本当にちゃんとできている人は、意外と少ないらしい。

本当にそれができている人、やっている人は、観察していれば分かってくる。

(先輩も同じことを言ってた)


"あ、こういう風にしたらいいんだな。自分もこうなりたいな"

そう思えるようになった。(まずそう思えただけでもえらい)


どちらかというと私は、"察して欲しい"、"気づいて欲しい"、"向こうから声をかけてきてほしい"が昔から強い。

元々の性質だし、そう簡単に変えていけるわけではないけれど。


でも、(ダメダメな時もあるけど)、少しずつ意識的に変えていってるから、

"分からないから、ちゃんと聞こう" 

"些細なことだけど、聞いてみよう"

が前よりも、少しずつ確実に増えてきたことを感じている。


・・・あと、どうやら私は、

人に助けてもらうこと、助けてもらえることをありがたいとは思うのだけど、

助けてもらいすぎて、ほとんど自分でやることがなかったり、時間がかかっても自分が理解したり、納得したりして進まないと、自分がやったことでも、"自分でやった"と感じられず、"達成感"とか"やりきった感"がないようだ。


気付いたけど、じゃあどうしたらそういう感覚が増えるのかというと、そこはまだ模索中だ。

自分の感覚だから、なかなか難しい。

本当にしっくりハマることって、なかなかないのかもしれない。


そんなもんなのかな。"感覚"だから。


だから、今みたいに、輪郭の分からない、言葉にしづらい、言葉にできない"ほんやり"ではなく、"くっきり"させていきたい。


"感覚"も、"感性"も。


(あれ、なんか最後話変わってるな・・・)


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