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あとは死ぬだけ・・・なのか?

「私の人生、整理したらあとは死ぬだけだな」
『・・・っていうけど、それってホンマかな?』

最初に断っておくけれど、私ほど幸せに人生を彷徨ってこれた人はいないと思っているし、そう言い切れる。紆余曲折があってこその問いかけってこと。

なぜか、走馬灯のように自分のこれまでの人生を綴ってみたくなったので、自己整理のために書き出すことにした。長文すぎるくらいの長文です。

ルーツを知って鳥肌が立った高校時代

苗字の由来で「あなたの苗字の由来は、【衣服を作る部族】って意味があるんだよ」って高校時代の歴史の時間に脱線して先生が言った。その当時、祖父の代から両親が引き継いで衣料品店を営んでたから鳥肌が立ったのを覚えている。

苗字の由来通りに生きてるってすごい!すんなり「私も衣料品店を継ぐぞ!」と熱意を持って親についていって仕入れと販売を頑張っていた私の若かりし時代があった。

そのまま流通系アパレル会社に入社して、販売するも、世界は全く違ってて、自分が今まで頑張ってきたお客さんに対する姿勢も通用しなかった。上司からは「そんなことしなくっていい。慈善事業じゃないんやで。」と一蹴されて撃沈。そこからは自分の殻に閉じこもり、誰も信用できなくなっていった。

引きこもりのアパレル社員時代

自己流すぎて、しかも自分が得意とする中高年向けの接客が世の中に通用しないと思い知らされてすっかり孤独しか感じられなくなったけど、繁華街に位置する職場では勢いに乗ってガムシャラに働く時間が重なっていった。

暇を見つけては、日本海や四国へ波乗りをしにいくパターンだった。
脱・街ナカ。自然に包まれる逃避行。

郊外への転勤と自滅の末路

6年ほど立った頃、新しいお店の立ち上げに・・・と転勤辞令が出た。最初は断ってたけど、繁華街中心部の若い環境になじめてない自分を認めて、郊外の店舗へ移った。

忘れてたけど、今まで頑張ってこれたのは、忙しすぎて時間をごまかしただけだったので、仕事に対するやり方は分からないまんまだったし、勢いでごまかしただけの雑さでテクニックもなかった。

そういう根底の当たり前なことに気づかされたのは、郊外特有ののんびりしたビジネスアワーに包まれた時だった。同じ店舗から同じ転勤先へと移ったのは、上司もやはり同じだった。だから、相談しようにも、上司の余裕のなさと自分の余裕のなさでコミュニケーションが図れなかった。次第に私は自分の殻に引きこもるようになった。

2年もしないうちに、対人関係のこじれも相まって、鬱を発症。
もともと引っ込み思案だったからか、先のことを考えると恐怖しか感じられなくなり、自分で自分の居場所を作れなかった自分責めで過呼吸にもなって救急車で運ばれたこともあった。

自分が分からない自分と過ごす実家の時間

毎日のように泣いて暮らした自分責めの時間を実家に移す。実家でもなお泣いて怯えるばっかりで、妄想はしばらく消えることはなかった。

けれども、そういう自分を変えてくれたのは両親が営む衣料品店。お客さんと喋るだけで笑顔になったし、会話量も増えた。すっかり会社時代を過去にして、話題も増えた。

そんなこんなでアルバイトや転職を重ねて新たな時代を生きてこれた。ワーキングホリデーにも行ったし「自分は、もう大丈夫」って思ってた。

田舎の文化との違いに撃沈。再び泣く毎日へ・・・

海外経験をどうにか生かしたいと思って英会話教室の講師になった。なかなか大変だったものの、楽しかった。異文化を子供達と楽しむことがワクワクできた。

そんな感じで新しい自分を見出せた(と思っていた)ある時期に、結婚したくなった。新しい自分で生きていきたかったから。

で・・・
願えば叶うもので、すぐにお見合いの話が湧き起こった。相手の方やその家族と会ってみると、向こうの両親の熱烈歓迎っぷりに圧倒され、その熱に絆されて(ほだされて)相手のことなど深く考えずに入籍したんだった。

けれども、街ナカでも郊外でもなくて、田畑の広がる田舎の集落に嫁いだもんだから、一緒に住んでしばらくしてからは、私の着る服や下着、行動の一つ一つが珍しいらしく、姑さんから「オマチニンサン(お町人さん)」って呼ばれてた。違和感しか感じられない空間だった。

当時の旦那さんも、私も、お互いに接し方が分からなくて、親を視野に入れすぎたものすごい遠い距離感の夫婦でしかなかった。だから、肝心なことは「生活ってパターンがあるし、リズムがあるから、それさえできたら大丈夫やろ」ってな感じで大雑把なもんだった。

大雑把さは、一緒に住み出した年末に亀裂となって現れた。また、過呼吸がでたのをきっかけに。

当時は英会話教室の講師業を引き継ぐため、地元と嫁ぎ先を県をまたいで仕事してたので、めまいや苦しさがあった。あまりの体調の悪さで心療内科で相談した。精神の興奮状態を落ち着かせる薬を処方されたので服用することにしたんだった。

嫁ぎ先に戻って、心療内科のこと、薬のことを説明して「体調を崩しているから服用している」と伝えたら、悲鳴にも似た声が返ってきた。

「お前は、キチガイ病院へ行ったんか!薬まで飲んで!!!」逆鱗に触れたようだった。「なんでそんな勝手なことしたんだ!?将来、どんな子供が出てくるか分からなくなるだろ!」と言われた。

正月を前に、そんなこと言われて、悲しくて。。。その日を境に実家へ帰った。もう戻れなくなるのはわかっていたけど、その場に居られない。怖かった。両親にも申し訳なく思った。自分のことなんて、どうでもよかった。

それから半年後、籍を抜いて実家で過ごした。

30代は自分探しの時間だった

あいも変わらず自分らしさを取り戻せたのは、両親の衣料品店だった。
けれども、目の前にいる両親は歳を増して姿が違っていたし、お客さんも明らかに年老いていた。そういう自分もそうだったけど、年配者と一緒にいる自分は、当時、「自分はまだ変わってない」って思っていた。

だけど、どんなに頑張っても中高年の衣類を販売していて自分が代継ぎになれるとは思えなくて・・・それでも、意地でもお店にはしがみ付いて、バイトしたり再就職したりした。

5年くらい続いたのは、やはりアパレル会社だった。本社内の勤務で、事務職だったり販売応援で百貨店の店頭に立ったりした。中高年を対象にした商品だったのに、なぜか居心地が悪かった。結局は、本社移転のタイミングで辞職した。

新規開拓のつもりで1年ほど上京もしてみた。

シェアハウスに住んでみた。
洋館をリメイクした建物の魅力に惹きつけられたこと、管理者が日本好きな外国人だったことが決定打でシェアハウスにラブコールして、住まわせてもらった。

家事代行の仕事を見つけて、某アーティストのスタジオや自宅の掃除をする仕事にもついた。同時に、体の中身(臓器の機能)や体の作りを学び、アロマを活用するスクールにも通った。

スクールの中でであったクラスメイトが所属するネットワークビジネスのグループに気に入られて、半ば、洗脳のような時間もあったけれども、友達を作るのが苦手だった私には心地よい空間だった。シェアハウス内では怪しまれることにもなったけど。

それもこれも関東大震災の激震後の混沌さと、スクーリングの終了とが重なったタイミングで帰省した。東京にいても根を張れるところが感じられなかったから。

自分に箔をつけたくなった黄金時代

帰省してしばらく経ったころ、アロマを学んだ自分を育てたくなり、しかも30代半ばになった自分に箔をつけたくなったので、地元を代表するリゾート系ホテルのアロマセラピストに申し込んだ。結果としては、採用をいただけた。

リゾートホテルとしても機能するホテルのアロマセラピーサロンは最高の眺めと立地状況だった。海に面した職場へ通うことも、そこに居ることも最高だった・・・生ぬるく過ごす同僚の姿をのぞいては。

生ぬるい時間を送っていたのが災いして、売り上げをさほど上げないサロンは用済みになったらしく、就職して3年しないうちに業態変更の名の下に閉店を言い渡されて辞職することになった。

40代になって、アロマセラピストの立ち位置を思い知った。需要が多い夜中の勤務が自分にとって、とても辛いことを実感したんだった。「朝方の生活を送りたい・・・」「清々しく、朝を迎えたい」

朝型生活のためならなんでもいい

自宅でアロマサロンを運営しようと画策しつつ、朝方生活を送りたい一心で地元で有名なパン屋へパート入社した。

自宅のアロマサロンは、お客様を呼び込むことができないまま、開店休業状態。その時間をすんなり譲って、外資系の企業内でレストランのキッチンメンバーとして働くことにした。

今となっては、すっかり料理をする人であり、パンを販売する人になっている。生活の基盤を朝に切り替えたおかげで、健康的に生きてこれている。太陽の恵みの凄さを思い知って、夜に働く人への感謝を胸に過ごしている。

朝方生活に切り替えて、3年がたった今、婦人系の疾患「子宮筋腫」と「子宮頸がん検査の陽性の疑い」に面している。

単純に、「子宮筋腫を持ってる」ってだけでは「よくある話」という程度に捉えられやすい。実際、自分がそれをカクレミノにして誤魔化してきた。

けれども、子宮頸がん検査の「陽性の疑い」。これだけは、よくある話ではない。慎重に病院で検査を重ねてもらっていて、現在も再再検査を受ける予定で待っている。

病気になった自分を辛いとみるか、どうみるか・・・自問自答を繰り返しているけど、自分としては強がりなく「生きてていいよ」って社会に言われた気がしている。それをすんなりと受け止めることはできずにいたけど・・・

恋愛できないし、すぐ殻に閉じこもって人と共存できないし、ましてや子供も産めないし、無い無い尽くしの自分だから、生きる望みなんて感じられない。今まで、頑なに持ってきた親への視線を「看取り・亡くなるまで面倒みる」という思い込みにすり替えて頑張る自分がいた。

最近の内観で、親にしがみつくだけの自分に気がついてしまった。

自分がなぜ社会に飛び込むのが恐怖なのか・・・心理セラピーなどで理解は進めてこれた。その恐怖を上書きするために、再就職してチームワークが必須なところで働いている。

やっぱり最初は恐怖しかなくて、何度も鬱にまみれそうだった。でも、不思議と鬱にならずに回復できる「聞き上手」な人たちが他部署にいっぱいいた。だから、結果的に、今の会社に就職してよかったと思っている。ダブルワークとして働くパート先のパン屋さんでも心の安らぎの場として感じている。心のバランスもいただきながら場に馴染んでいて、お客さんとのやりとりも楽しい。

パン屋さんで販売していると、幸せな笑顔にいっぱい出会える。焼き上がるパンの香りもいいけれど「これが買いたくて来ました!」っていういろんな年代の笑顔がとても素敵だから。この時間は、本当に美しいし、感動する。

3年間でいただいた自分の居場所

今はまだ、検査を待つ身なので、どんな感じで働けるか・・・先のことがわからない。だから、両方の職場で自分の状況を伝え、返答を求めたら「会社には人を休ませ、回復してもらうだけの用意がある」とシステムを紹介してくれた。

治療して、休養してからも働く場は守られている。

それを教えてくれた。パート先ではそこまでの待遇はないにせよ「しっかり休んで、回復したらまた頑張ってもらうよ」と暖かく微笑んでくださった。

ここまでしないと、本当の自分は「いずれ要らないって斬られるんだろうな」と怯えていることを内観で見つけちゃったから、きっと、この一連の出来事を通して、私は生まれて物心がついて、知らないうちに社会で生きることが怖かったのを「生きて大丈夫」と思わせてもらえたんだと感じている。

48歳になっちゃったけど、今、ようやく生まれてきた感じがしている。
ここまでの時間は、親と妹を守るために必死だったし、自分なんて適当でよかった。2度も震災に遭ったのに、命が守られている。なんで生きてるのか、わからなかった。

病気の疑いを受けて、働く時間も体への影響を考慮してすごく短くなっていて、収入減少しかない自分なのに、内観したり、ストレッチや筋トレして体との対話の時間を増やしていくうちに、「自分なりの未来」が親の影響とは関係なく広がってくるんだろうな・・・って思えるようになってきた。

言い換えると、私はまだ生まれてなかった。

最初のミッションは、余命宣告を受けた父をサポートすることと、夫婦仲がぎこちなかったから、私がカスガイ(鎹)になって自営業の自分たちを守ることだった。

父が亡くなって、自営する店もなくなって、燃え尽き症候群にも飽きがきてしまって。。。することがなくなった。そのくせ、目の前で繰り広げられる新しい世界も見えていて、肌で感じる刺激が日に日に強くなってきた。

もう、この先は「風の時代」というらしい。

目を背けていては、一瞬にして変貌してしまう時代。自分の中の羅針盤を、しっかり持っていなくちゃ見失う時代。「自分は誰なのか?」この問いかけに、ありありと答えられる自分が必要不可欠になっている。

12月のX-DAYを自分に用意した。

もしかしたら自分が来月に入院するかもしれないけれど、そこを問題にするんじゃなくて、入院したとしても数週間で済むと予測して、その先にも続く未来を想定して進んでいく準備を始めた。

まずは、靴を買い揃えた。新たな時代を歩むための靴を2足。
それから、心地よくなるために必要なものはなんだろう・・・と思いを馳せる。自然素材の肌着も揃えたい。寝具も揃えたい。

心地よいマテリアルに包まれた自分になって、自然な笑顔が浮かんだときには、体が喜ぶ美味しいご飯を食べていたい、体が喜ぶ運動もしたい。

体が喜ぶ空間を共有できる友達が欲しいし、産み出し育む仲間が欲しい。その中からパートナーが見つかるといいな。喜びの空間を味わえる人生を送っていたい💖

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