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現実を受け入れるとはどういうことか
「現実を受け入れろ」
よく聞く言葉である。
これが出来た方が、人生圧倒的に楽だということは重々承知である。
でも、現実を受け入れるって具体的にどういうことなのか?
どういう状態になれば、現実を受け入れたことになるんだろうか?
現実を受け入れられないと感じた原体験
かつて、現実を受け入れるとは?を考えるきっかけになることがあった。それはとても受け入れたくない現実だった。
大好きない実家の犬ころが、この世界からいなくなろうとしてた時だ。
事は食べることが大好きなわんころが急にご飯を食べなくなった時から始まった。
家族からその一報をもらってから、もういてもたってもいられなくなって、会社のPCを抱えて飛ぶように実家に帰った。(こういう時だけはしれっとフルリモートの恩恵を受ける)
ご飯、食べない。
嘘でしょ?あの食欲の塊みたいなベルが?食べない?
目の前で起こってることが理解できなかった。
ご飯からぷいっと顔を背けるベルを見て、絶望して目眩がした。
別の食べ物を試してみて、ちょっとでも食べてくれた時は、ああよかったと安堵し気持ちが楽になった。
でもこの安堵は、いずれ訪れる悲しすぎる別れを先延ばしにするだけの安心である。
これこそ現実逃避で得られる安堵にすぎない。
時々、寝ているベルを見てると、突然涙が止まらなくなった。
ふと思い出したかのように別れを想像して、悲哀があちらこちらから噴出してきて溺れかけた。
そういう時に思った。
受け入れたくもない現実って、どうやって受け入れられるのだろう?
現実を受け入れた、というのは、どうなったらそう言えるのだろう?
そもそも現実を受け入れられていない状態ってどんな状態?
こんな状態の私は、たぶん現実を受け入れられてない。
そもそも、どういう現実が受け入れられないと感じるのか?
もう少し状況の抽象度を上げてみる。
起こってほしくない、どうか起こらないでと鮮烈に感じるような出来事。
つまりは、それが起こることによって、猛烈な喪失感、絶望感などを引き起こす出来事。
これってつまりどういう出来事なのか?
一つ思ったのは、理想と現実に著しいギャップを生じさせる出来事、なように思った。
そう考えると、現実を受け入れられずにもがき苦しむ時というのは、現実に対してかけ離れた理想が頭の中に刺さって抜けない時なんじゃないかと思える。
つまりは、
変えようがないもの・自分の力でコントロール出来ないものに意識が向き、それをコントロールしたい!逆らいたい!ともがいている状態
なような気がしてきた。
愛犬の例で言うと、生き物が死ぬ仕組みは変えられない。
でも私は一緒にずっと物理世界で生きたい、という理想が無意識的に頭の中にあった。
こういう実現不可能な理想への執着や、変えられない現実を変えようともがくことというのは、自然摂理に逆行している状態である。
この世界には自然摂理という神によるプログラムが存在している。人間などの非力な存在が変えられるものではないもの。自然災害や食物連鎖、自然淘汰など、いろんな神の采配がある。
我々が今生きてるプラットフォームはどういう自然摂理によって織りなされてるのか?は生きていく上で知っておくに越したことはないように思う。
現実を受け入れるとはどういうことか
そう考えていくと、現実を受け入れられる瞬間というのは、
自分がコントロールできるものとできないものの判別がついた時、そのボーダーラインが腑に落ちた時初めて受け入れられたということになるんじゃないかと思った。
つまりは、「受け入れられないような出来事が、自分ではどうしようも出来ないものだということを腹落ちさせられた時、初めて受け入れられた、となるんじゃないかと思った。
もちろん、この境地に至るまでに必要な時間は人それぞれだけど。
現実を受け入れるということは、我々が今生きているこの世界を知る、理解する、ということに近いのかもしれない。