【多様性を考える】多様性を受け入れることは本当に可能なのか
最近よく聞く言葉。
ダイバーシティインクルージョン。
D&I、うちの会社は謎にI&Dと呼ぶが、今はこれにEquityが加わったDEIがあったりもする。
障がい者雇用を促進したり、女性採用を強化したり、女性が働きやすい制度を整えたり。
そういった社会制度を整えようという取り組みが進んでいる。
その風潮自体はすごくいいと思うし、美しい取り組みだと思う。
でも一方で、本音では、そういうダイバーシティインクルージョンの取り組みに違和感を感じている部分もある。
それは特に、私が働くコンサルティング企業でヒリヒリと感じる。
コンサル業界で感じるダイバーシティインクルージョンの限界
コンサル業界にいると、ダイバーシティインクルージョンについてよく考える。
それはなぜかというと、時々自分が、気質や性格が故に排除されるような感覚を覚えるから。
私は敏感さ繊細さというような気質を持っている。
大きな音などの強い刺激に敏感だったり、人の威圧的な言動などにもとても敏感なのだ。
ただ、この気質はこの業界では圧倒的マイノリティ。
コンサル業界は徹底的論理型ビジネスの世界なので、やはり当たり前ながら、合理的で打たれ強い人が多い。
冷静、端的、合理的。
そういう言葉がよく似合う人が必然的に多くなるのは想像に容易い。
だが、こういった人たちというのは、人の感情に敏感で、感情がすぐ揺れ動いてしまう私のようなタイプには冷酷すぎるのだ。
その結果、心無い発言と感じ、心にグサグサと突き刺さり、動揺することも多々ある。
私のこういった気質(変えようにも変えられない特性)を理解されることはほぼない。
マイノリティだから、マジョリティに合わせなければこの世界では生きていけないよ、といった具合なのだ。
こういうことを考える時いつも思います。
性格や気質の多様性は、ダイバーシティインクルージョンには含まれないのだろうか、と。
論理的思考力なんて、鍛えれば誰だって身につくもの。
コンサルタントとして生きていける思考能力がある人間でも、マジョリティの気質が合わなければ、マイノリティ側は迎合しなければならない運命なのだろうか。
コンサル業界はなんだかんだ男性社会
コンサル業界も、ダイバーシティインクルージョンの促進のため、女性採用を強化している。
でも、個人的にこれもまた穴だらけだと感じている。
いくら女性採用を増やしても、今の環境だと、結局生き残れるのは男性社会に適応できる女性だけだからだ。
目的達成のためには人の心は顧みない。
競争文化。
淡々と仕事をこなす。
出来ていなければ徹底的に詰める。
上下構造。
そういう色がやはり強い。
そういう風土は、やはりこれまでこの業界を担ってきた男性が醸成してきた風土であると思えてならない。
これは決して男社会を否定してるわけではない。
問題なのは、そういう男社会の考え方風土が根強い環境に、ダイバーシティインクルージョンの”型”だけを無理やり入れ込もうとしているということ。少なくとも私にはそう見えるのだ。
元々の環境が、限定的な人間のみが適応できる風土であるために、そもそも多様性を受け入れられる土台が出来上がっていない、
とわたしは思っている。
環境は基本マジョリティが支配してるため、マジョリティに理解されなければマイノリティはその時点で立場が弱くなる。
なので、自分を殺してその世界に適応していくしか方法が残らない。
文化や風土が、そこで生きて行ける多様性の枠をがちっと定めてしまっているのだ。
環境を整えても人々の意識が変わらなければ何も変わらない
昔会社の中にある、プロボノの障がい者雇用促進プロジェクトに参画したことがある。
私が働く会社には、自社内で障がい者を雇用するサテライトオフィスがあり、そこで働く人々の働きがい・生産性を向上しようとするツールを開発するためのプロジェクトだった。
そして参画して分かったことは、プロジェクト推進側と障がいを持つ方々には明確な強弱関係があったということ。
障がいを持つ方々は物理的や制度的なところが整えられた環境で働いているのみで、彼らの特性をプロジェクト推進側は果たしてどれほど理解していたのか?理解しようとしていたのか?
その現実を見て、私は強く絶望したことを鮮烈に思い出す。
障がいのことを知れば知るほど、人間における「当たり前」という概念はただの虚像でしかないことを突きつけられる。
健常者ができて当たり前だと思ってることを、障がいを持つ方々は出来ない、というものがたくさんある。
だが、健常者側はその事実をそもそも理解しきれてないところが強いと感じるのだ。
理解しきれていないから、その理解できる範疇で物事に筋を通そうとするため、
「なんでできないんだ」
「こんなこともできないのか」
という風な捉え方にしかならない。
だから、こういう環境で型だけを整備しても意味がない。
私が思うのは、「理解できないものとどう向き合うのか」という意識までも変えていかなければならないのだ。
人間は理解できないものにどう反応するのか
朝井リョウの小説『正欲』では、まさに自分の多様性を理解されない人々についてが描かれている。
この小説で言われていたことをものすごく端的に言うと、人間って結局は自分の理解できる範疇でしか物事を理解することはできない。だからそもそも世間に受け入れられる多様性は、世間の理解の範疇にあるものだけである、と。
つまり、多様性と言っているが、その世間の多様性には明確な枠(限界)があり、そこに収まらない多様性は他でもないただの異常な何かとしか受け取られない、ということだ。
自分の理解の枠におさまらないものは、いとも簡単に、意味が分からないもの、怖いもの、避けるべきもの、というよう「排除する対象という刻印」が押されるのだ。
その結果、その人たちは社会からこぼれ落ちます。そして、生きづらさを携えて暮らすしかない。
この「排除するものという刻印」はどういうメカニズムで押されるのか。
その共通理由として一つあると思っているのが、感情。
人の理解の範疇には限界がある。
そして、理解できないものに遭遇すると人は何かしらの不快感を覚える。感情が伴う、ということだ。
これは生物の性質的に致し方ないものだと感じている。
生物の究極目的の一つには、「自己の生命を守ること」がある。そしてそれを実行するためのものの一つとして感情機能が備わったと考えられいる。
つまり、自分が避けるべきものには不快感を感じるようになっているわけだ。
だから、理解できない対象には負の感情反応が誘発されるため、ダイバーシティインクルージョンの達成はかなり難題だと私は感じているのだ。
ダイバーシティインクルージョンという言葉は受け入れられる側という意識を強める
ダイバーシティインクルージョンと言っているけれど、結局現状は制度や環境が整えられているだけで、本当の意味で皆が受け入れられているとは言えない状態だと思っている。
マイノリティは、マジョリティが受け入れてくれることをただ待つことしかできない。
受け入れる側と受け入れる側の線引きがこの世界には明確に存在していて、そして主導権を握っているのはいつだって「受け入れる側」だ。
社会の枠組みから外れてしまった「受け入れられる側」は、社会の枠組みの中で生きる「受け入れる側」の人たちに対して何ができるのか。
こちら側がどれだけ声をあげても、どれだけ理解してもらおうと頑張っても、マジョリティは「意味がわからない」という最終奥義を持つ。
その刃で切り裂けば、それで終わりなのだ。
ダイバーシティインクルージョンの達成に必要なこととは
分からないもの、理解できないものにどう対処するか、という姿勢に依存すると思っている。
ネガティブ・ケイパビリティという言葉がある。
このネガティブ・ケイパビリティという力は、「分からないもの・理解できないものを、分からないものとして理解し、そのままそれを受け入れる力」のこと。
理解はできないけど、あなたはそうなのね、というリスペクトとともにそれを受け入れていく。
なかなかこれまた難題だと感じるが、このネガティブケイパビリティの形成・強化が、ダイバーシティインクルージョンの本質なんじゃないかと私は思う。