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【映画批評】デヴィッド・クローネンバーグの形而上学

割引あり

 デヴィッド・クローネンバーグほど、数年後のライフスタイルを予知した監督はいないだろう。

 たとえば、ドン・デリーロの同名小説を映画化した『コズモポリス』では、若き投資家がリムジンバスに乗りながら外の世界の混沌を眺めている様子が描かれている作品である。人々は、株価などの数字に一喜一憂する。ロバート・パティンソン演じる投資で莫大な富を得た男はリムジンで床屋へ向かう途中に人民元の相場が変動し窮地に陥るも、どこか現実離れした状態によって痛みを感じなくなり、痛みを求めるかのように自分の手の甲に銃弾を撃ち込むようにまでなってしまう。痛みを感じないということは他者への関心も薄まることであり、ゆっくり茶番劇を商標登録し共有財産を占有しようとするようなことをしようとしたりする。公開当時はよくわからない映画として低い評価だったのだが、仮想通貨問題やNISAを巡る問題、そしてスペクタクル化するSNS像を踏まえるとアクチュアルな話であることが分かる。デヴィッド・クローネンバーグの作品は、未来のライフスタイルや概念を予言しているようなイメージが強い。そこで今回は、彼の作品を幾つかピックアップしながら概念を整理していくこととする。


『ステレオ/均衡の遺失(1969)』

 本作はテレパシーがコミュニケーション手法として確立された場合の人間心理について考察している。言語なくして抽象的、論理的思考はできるかと投げかける。そして、テレパシーによる会話が行われるときに人間にどのような影響を及ぼすのかを掘り下げていく。テレパシーにより、他者の思想が干渉してくる。自分が心で思ったことを覗かれてしまう。テレパシー同士での会話による、自分の安全圏を作るために内なる箱を設けるのだ。技術系の話をすれば、企業内のネットワークと外部のネットワーク領域を接続する際に、外部から侵食され大切な情報が汚染されるのを防ぐためにDMZ(非武装地帯)を設けるのだが、それをテレパシー使いの中で実現しようとしていることが分かる。まだ、ネットワーク技術が市民から遠い存在だった時代にDMZ的発想をクローネンバーグが持っていたことが面白い。

 この発想を今に当てはめると、SNSの役割の変容に近いものがある。1990年代から2010年代初頭ぐらいにかけてSNSは、現実で吐露できない感情を吐き出す場所として使われていた。しかし、多くの人が日常的にSNSで情報を発信したり、他者の思想を覗き込めるようになると、SNSは現実と等しい公共の場と化す。他者による干渉や、社会の流れによって自分の本心が揺さぶられる。そうなってくると、人々はSNS上でも現実同様に仮面を被り、自分の本心を制御しようとするのだ。その心理を明確に描いた作品が細田守の『竜とそばかすの姫』だったりする。2020年代、人々はテレパシーを使うことはまだできていない。でも他者の思考が簡単に覗き込めるSNS空間で個人間の権力闘争が起こる構図は本作が語っている通りになったといえよう。

 『ステレオ/均衡の遺失』に話を戻すと、クローネンバーグは肉体と精神の関係性について論じており、異性愛者とそれ以外に差異はないと語っている。異性愛者とそれ以外の差は生殖できるかどうかであるが、それによる優劣はなく、どちらも倒錯でしかないと語っている。SNSのアイコンで簡単に異性や異形、なりたい自分になれ、多様性について人々が触れる機会が増えた2020年代ですら、いまだに異性愛者至上主義、生殖できるか否かが争点となる時代を物語った作品といえよう。

『クライム・オブ・ザ・フューチャー/未来犯罪の確立(1970)』

 ルージュ病が蔓延する世界にエイドリアンがやってくる。彼は館の謎を調べに来た。黒い液体を吐き、体から白い泡を吹き出す現象を見つめ、同僚が機能なき完璧な臓器に取り憑かれる様子を客観的に観察、分析する。そんな中、突然現れた男に患者が殺される。狼狽するエイドリアンの元にエラのような足を持つ男が現れカードのようなものを落とす。それをきっかけに、同僚が形而上学に取り憑かれた道へと誘われていく。クローネンバーグは初期作から、肉体的変容を哲学と結び付けていた。思いついたアイデアを荒く結合した代物で、かつ哲学概念を剥き出しで使ってくるので分かりにくさはあれども、『イグジステンズ』や『危険なメソッド』、『コズモポリス』の原点となる要素が垣間見え、また新作『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』のガジェットに近いものを観測できる。クローネンバーグ映画好きにとって嬉しい描写が多い。

 そして、何よりもクローネンバーグほど形而上の理論を物語に投影し、未来の心理を掴もうと執着した監督はいないだろうと思う。例えば、死んだ皮膚学者アントワン・ルージュの言葉を引用する場面。「病で何十万人もの女性が死んだが、自分はこの病では死なないだろう。」と彼は言った。これは病が蔓延し、異常な状況に陥ると人々は、その異常さを直視できず他人事に感じてしまう心理を物語っている。まさしく、自分はコロナで死なないだろうと思う感情に直結した理論がここにある。完璧な臓器を作っても単体では機能しない。逆に、人間の肉体と結合できれば機能を持つことから、肉体を変容させることで精神を殻から解放させることができる。それに伴い、肉体と精神の乖離が生じ、どこか目の前の事象が他人事に感じてしまう。これはまさしく、スマホで高解像度に世界の惨事が映し出されているし、自分はインターネットという仮想世界で別人になることにより、眼前が近くて遠い存在になる世界観に通じるであろう。

 エイドリアンが、ルージュの真相を追ううちに、館の奇人のように変態性を顕にしていく。突然銃撃戦が始まってもそれは本物だと感じる。まるで夢の中ではどんなに異常なことも受け入れてしまうように、肉体と精神が乖離した仮想世界の中でエイドリアンはもう戻れなくなってしまうのである。序盤に提示された臓器を入れ替える話は、事象を観察し、自己に取り入れていく中で寄生し、その異常を普通と見做すプロセスのメタファーであったのだ。

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