【映画批評】ポスト・ゴダールとしてのラドゥ・ジューデ論
0.ロカルノ映画祭2024にてラドゥ・ジューデ監督作2本出品
先日、ロカルノ映画祭でルーマニアの鬼才ラドゥ・ジューデ監督が2本の作品を発表した。『Eight Postcards from Utopia』は、メディア論などを研究する哲学者のクリスチャン・フェレンツ=フラッツと共に、1990~2010年代にルーマニアで放送されたCMを並べながら、時代に敏感でありながら歴史を歪めてしまった広告の加害性を検討した作品である。『Sleep #2』では、アンディ・ウォーホル・ミュージアムが24時間265日ライブ配信している映像を切り抜き、ウォーホルの『Sleep』にオマージュを捧げた内容となっている。
ラドゥ・ジューデは2021年に『アンラッキー・セックス またはイカれたポルノ』でベルリン国際映画祭金熊賞を受賞、2023年には『世界の終わりにはあまり期待しないで』でフランス老舗の映画雑誌カイエ・デュ・シネマの年間ベストに選出されたことから、国際的に注目が集まっている監督である。
彼はフィクションとドキュメンタリー双方からルーマニアの歴史を捉えている監督であり、ラドゥ・ジューデに詳しいKnights of Odessaはセルゲイ・ロズニツァとの関連性を指摘している。確かに、ロズニツァはフィクション/ドキュメンタリー、短編/長編を反復横跳びしながら故国の歴史を見つめ直そうとしており、ジューデと共通するものがある。
しかし、『アンラッキー・セックス またはイカれたポルノ』以降の彼を追うと、セルゲイ・ロズニツァの文脈よりはポスト・ゴダールの観点で語られるべき監督なのではと感じるようになった。
ジャン=リュック・ゴダールは、メディアの形式とそれによる効果を探求し続けた監督である。商業映画と決別し、ジガ・ヴェルトフ集団として活動する中で、ヴィデオの特性、映像メディアにおける黒画面(=無)の活用方法を研究していった。彼のメディアに対する好奇心は衰えることなく、晩年では、奥行や驚かし以外での3Dの役割を模索した『さらば、愛の言葉よ』。既存の映画からインターネットに投稿された映像を自由自在に編集してみせた『イメージの本』。写真や絵、『アワーミュージック』の断片を繋ぎ合わせて存在しない映画について語り、戦争の本質に迫る『ジャン=リュック・ゴダール 遺言 奇妙な戦争』などを制作した。2020年には「コロナウイルス時代のイメージ」と題してインスタライブを敢行した。
ゴダールはベルリン国際映画祭にて『イメージの本』をインスタレーションとして公開していることからも明らかのように、映像メディアを「シネマ」の中に留めることなく、多層的なものとして捉えようとしていた。それを継承しようとしている人物がラドゥ・ジューデなのではと考えている。
近年、映画業界も変容を遂げている。YouTuberが実質主人公である『ツイスターズ』や『アンチソーシャル・ネットワーク: 現実と妄想が交錯する世界』のようにインターネットメディアが実社会にもたらす影響を分析したドキュメンタリーが登場するようになった。その多くは特定のメディアに対して具体的に眼差しを向けている気がする。しかし、実社会では複数のメディアが共存するケースが多いであろう。例えば、リモートワークをイメージしてほしい。我々はPCやスマホ、紙の資料を次々と切り替えながら、時に同僚と会話しながら業務を行う。このような現代のライフスタイルを「映画」といったメディアでどのように表現するのかと考えた時に、抽象化を行う必要がある。
ジューデは、映画の中で実験的な演出を用いて現代社会の混沌や故国の歴史について捉えようとしている。『アンラッキー・セックス またはイカれたポルノ』を例に挙げる。中学校教師のエミ(カーチャ・パスカリュー)の性行為動画が流出し学校裁判が行われる様子を3つの章で描いているのだが、それぞれアプローチが異なる。第一部では、エミの移動を通じてコロナ禍のブカレストを捉えるドキュメンタリータッチの内容となっている。第二部では、辞書的に「イエス・キリスト」、「本棚」、「文化」などといったテロップが表示され、それにまつわる小噺、情報が字幕で表示される。その並びは脈絡がないように見えるがじっくりその流れを追っていくと、革命の動画と、REVOLUTIONと書かれたワインが立て続けに並べられ、商品として革命が消費されている様子への風刺が確認できる。この奇妙な映像軍はTikTokさながら短い時間で流れていく。つまり、スワイプしていき次から次へと動画が流れ、消費していくSNS社会を象徴したものとなっているのだ。第三部では、学校裁判が始まるのだが、関係者はコスプレのようなものを纏い、言いたい放題エミに暴言を吐く。ここで第二部に強い意味があることに気づかされる。つまり本作はSNSの可視化の映画であると。
今回、『Eight Postcards from Utopia』『Sleep #2』を観て、ポスト・ゴダールとしてのラドゥ・ジューデ論が自分の中で浮かび上がってきた。『Everybody in Our Family』や『The Exit of the Trains』など、観られていない作品がいくつか存在するが、現時点での私の見解を論じていくとする。
1.ラドゥ・ジューデの来歴
まず、ラドゥ・ジューデ監督の来歴について整理しよう。1977年、ルーマニアで生まれた彼はブカレスト・メディア大学映画監督学科卒業後、コスタ=ガヴラス『ホロコースト -アドルフ・ヒトラーの洗礼-』やクリスティ・プイウ『ラザレスク氏の最期』の助監督を務め経験を積む。短編映画やCM制作を行いながら下積みを行う。そして、2009年に『The Happiest Girl in the World』で長編デビューを果たす。本作は、地方出身の少女デリダが自動車とCM出演権を獲得しブカレストへ向かうも、学校の先生である母親と、病気持ちで稼げない父親がついてきてトラブルに巻き込まれるといった内容。幸運を掴み取ったはずなのに、親の干渉、遅々として進まない撮影にフラストレーションが溜まっていくが、CMの撮影中は幸せそうな顔をしないといけないグロテスクさを描いている。実際に広告業界での実体験が反映されたこの生々しい物語はベルリン国際映画祭CICAE賞を受賞し、同年のカンヌ国際映画祭ACID部門のプログラムへ選出させるほど評価された。2015年には、『アーフェリム!』でベルリン国際映画祭銀熊賞(監督賞)を受賞する。
また、ラドゥ・ジューデ監督は短編/長編、フィクション/ドキュメンタリー様々な方式でコンスタントに映画を作っており、幅広い手法を映画に取り入れている。たとえば、『The Dead Nation』は1930~1940年代、ルーマニアで撮影された写真を並べホロコーストの歴史を浮かび上がらせるドキュメンタリーとなっている。『The Marshal's Two Executions』では、独裁者であるイオン・アントネスクの処刑に関して実際のサイレント映像と映画化されたものを比較検討している。『Caricaturana』の場合、オノレ=ヴィクトラン・ドーミエの風刺画を使い、
1.ただめくる
2.ナレーションをつける
3.現代のニュースに重ねる
の3つの観点からメディアが我々に与える影響の違いを捉えた。彼は海外メディアのインタビューの中でクロード・ランズマンの『SHOAH ショア』やギー・ドゥボールの『分離の批判』といった映像メディアそのものを批判的に捉えた作品に惹かれたと語っていることから、フッテージや写真、風刺画といったメディアを多角的な視点で見つめようとする姿勢がうかがえる。
彼の転機は2018年の『野蛮人として歴史に名を残しても構わない』だろう。この頃から、ひとつの作品の中で異なる質感の画が織り交ざるようになってくる。本作では、ルーマニア軍によるユダヤ人大虐殺「オデッサの虐殺」を再現したショーを企画する女性演出家マリアナ(イオアナ・イアコブ)が、素人のエキストラを集めて指示を出すものの意思疎通ができないでいる様子を描いた前半、ショーそのものを描いた後半に分かれている。前半は映画の質感で描かれているのだが、後半はテレビドキュメンタリーのタッチでことの顛末が捉えられている。そして、随所にアーカイブ映像や写真を挿入されている。East European Film Bulletinによるインタビュー記事では経緯について語られている。彼によれば、『The Dead Nation』にて「当時は意味のないものでも、時が経ち意味が帯びてくる視聴覚的側面」に対する手応えがあり、『野蛮人として歴史に名を残しても構わない』で必ずしも映画的ではない素材から映画を構築しようとしたとのこと。この時点では、自身のメディア論を模索しながら回答していたように思える。しかし、今年のロカルノ映画祭における『Eight Postcards from Utopia』のCMのフッテージを並べる手法について語る場面で明確に自分の言葉へと落とし込んでいる。
2021年になると、先述の通りSNSを風刺した『アンラッキー・セックス またはイカれたポルノ』でベルリン国際映画祭の最高賞にあたる金熊賞を受賞し国際的に注目されるようになる。実際に日本でも劇場公開されたほか、サブスクリプションサービスJAIHOにて彼の過去作が配信され、映画ファンの間でも話題となった。
2023年には『世界の終わりにはあまり期待しないで』を発表し、ロカルノ映画祭審査員特別賞を受賞したほか、カイエ・デュ・シネマの年間ベストにも選出される。本作は、低賃金過労の映像制作アシスタントであるアンジェラが交通安全ビデオのキャスティングを行うためにブカレスト市内を車で走り回るというもの。映画は二部構成となっており、キャスティングを行う2時間ぐらいのパートと実際に撮影を行うパートに分かれている。『The Happiest Girl in the World』や『野蛮人として歴史に名を残しても構わない』、『アンラッキー・セックス またはイカれたポルノ』など彼が作ってきた作品を踏まえた集大成ともいえる作品であり、白黒/カラー、TikTokやWeb会議システム、全く別の映画のフッテージなどあらゆる素材をごった煮にした一本に仕上がっていた。
現在、ラドゥ・ジューデ監督はドラキュラ映画『Dracula Park』を制作している。Deadlineの記事によれば
と語っている。一方で、ルーマニアにおいてフィルムセンターをはじめとする各機関からの資金調達が困難であると苦言も呈した。彼の作品の多くは、主人公が理不尽に振り回され東奔西走する物語となっている。映画監督、そしてCMクリエイターとしてルーマニアで活動する苦悩が反映されているといえよう。
2.ナラティブの時代とフラグメントの時代
このようにラドゥ・ジューデの来歴を振り返ると、2017年の『The Dead Nation』以前と以後に分類できると考えることができる。『The Dead Nation』以降、オーソドックスな映画の語りから離れ、様々なメディアの特性を複合的に映画へと取り込んでいくスタイルを取るようになった。本稿では、『The Dead Nation』以前を「ナラティブの時代」、以後を「フラグメントの時代」と定義して分析していく。
映画ブログ『チェ・ブンブンのティーマ』の管理人です。よろしければサポートよろしくお願いします。謎の映画探しの資金として活用させていただきます。