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" 代わり " について考える

生クリームが高いから、というより一杯のパスタを食べる為だけに、あのヘンテコな形をしたパックに封入されたものを買うのは何だか違う気がして、クリームパスタには牛乳を使う。
箱詰めのバターの管理は私には難しく、銀紙を開けたりまた包み直す作業が手間であり、尚且つバターは冷蔵庫内のありとあらゆる臭気を吸い込んでしまうことから、ステーキやムニエルを調理する以外はマーガリンでやり過ごしている。トランス脂肪酸が何だとか云う意見もあるが、そんなことはどうだっていい。詰まるところ料理なんて見てくれが良ければ、食味が理路整然としていれば問題ない。
大昔に買って貰えなかったゴム動力のプロペラ飛行機に至っては、刺し身用のパックをふんだんに使って市販品を模倣した飛行機を作り、自分の機嫌を取っていた。
手元にあるもので何でも済ますことが可能であれば、やたらに金を払わずに形にするということ。これぞ私の中に息づく文化である。

新大阪駅で「そこにいると邪魔になりますから、」と声を掛けられてから早くも2ヶ月が経とうとしている。エスカレーターの立つ場所は関東と関西で左右逆のシステムが確立されているらしく、左側で呑気に居座っていた私は当然の如く注意を受けた。この後兵庫県に移動した先でも同じ過ちを犯した訳だが、こんな狭苦しい単一国の中に存在している文化の隔たり。どうにかならなかったのかと思ったりする。
自室に設置してある時計は周波数を切り替えられる機能があり、大した違いはないだろうと関西仕様の60Hzで使用していたら、現実と少しばかり時間がずれていた。コンマ数秒という齟齬を放置すると2日後にはまるで正常に機能しなくなり、電波機能も自動調節機能もない古びた時計のダイヤルを何度も回す羽目になった。訪れてみればわかる事だが、関東と関西にはそうした文化の違いが要所要所に溢れている。気がする。

風邪をひいてからしばらく、匂いというものを忘れてしまった。コロナの時にも感じたことだけど嗅覚が正常に機能しない苦しさは尋常ではない。甘いか辛いか、という二分で暮らすことはとてもじゃないが耐えられそうになかった。いつかは戻ることであろうし、風邪などという些細な出来事によるものだから、じっと我慢をしている。日々どれだけ嗅覚に身を任せてきたのか、本当によく分かったから勘弁して欲しい。嗅覚だけでもここまでの苦しさだというのに、デルタ株やらの災いであまつさえ味覚まで失った人々は、どのようにして正気を保って居たのだろうか。

秋になって、香水を切り替えようと考えているので、ネットでそれなりの情報を集めるのだが、高い香水に香りが似ているいわゆる「代替香水」なるものが紹介されていた。欲しいものは廉価品か代替品でやり過ごすことを良しとする私でも、「それはちょっと違うのではないか」と思ってしまう。似ているというのも、どこまでなのだろうか。単にトップが似ているだけなのか、ノート全体の雰囲気が似ているだけなのか、字面からは到底読み取れそうにないのだけれど、これまでいくつも香水を手にしてきた私からしたら、違う商品でも同じ匂いのする香水などひとつもなかった。秋はベタに金木犀を取り上げる会社も多いのだけれど、金木犀ひとつにしたって、企画者側の思惑というか癖のようなものを感じる。聴覚と視覚が、頼るにも厳しいくらい非機能的な私は、嗅覚に依存した生活が部分として大きい。香りというのは、換えが効かないほど繊細なものだと思っている。この子の匂いはあの子からしないし、先代の犬と今飼育している犬の匂いも全然違う。これも私の勝手な解釈で、尚且つ私の文化なのだろうか。

金木犀を肌から、心から感じたいというなら、断然私は舞妓夢コロンの金木犀を推します。3滴皮膚に付けるだけであら不思議。一瞬であなたの体が金木犀の木に!!

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