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▲群馬・栃木への旅▲⑨碓氷峠・旧信越本線アプトの道を歩く(後編)

群馬県と長野県の県境にある碓氷峠。古くは中山道の峠道があり、明治時代に鉄道が開通し、鉄道もアプト式から戦後作られた峠越えの線路に変わり、今では北陸新幹線で越えていく形となります。道路も、国道18号の碓氷峠の旧道、碓氷バイパス、上信越自動車道と様々な形でこの峠を越えていますが、今も昔も難所であったことは変わりないと思います。

前回、廃線跡のアプトの道を歩き、トロッコ列車が走る複線線路の跡地部分を紹介しました。今回は、その先の美しい旧線トンネルと橋梁などが残る廃線跡を紹介します。
(前回はこちら)

旧国道18号が上を通る橋。これもちょっと気になる存在です。
国道18号を抜けると、この美しいカーブとトンネル!
北原白秋の歌碑がありました。
元は国道18号沿いにあったものを移設したとか。

アプト式の旧線は、峠の湯を過ぎると単線の廃線跡となります。きちんと整備された廃線跡は、誰もがウォーキングを気軽に楽しめるとても素敵な場所です。足腰に自信がない方も、峠の湯に車を停めたり、ここまでトロッコに乗ってくることもできます。

1号トンネル。坑門がまた立派です。
レンガ積みの素敵なトンネル。坑内もきちんと照明があるので、
安心して歩くことができます。
坑内でレンガ積みを眺めるのも、これがまた美しい。
レールをあえて残している場所があるのでしょうか。
素晴らしく整備された遊歩道です。
トンネルの坑門工は、地形によって形がひとつひとつ違っています。
内面が補強された区間も。(廃線後に整備した可能性ももありますが・・)
長年使われてきた証拠です。
碓氷湖と呼ばれる、ダム湖を横目に見ながら歩きます。
めがね橋を意識してデザインされた橋が架かっています。

美しい廃線跡の遊歩道は、トンネルと小さな沢越えの連続です。左手に碓氷湖というダム湖が見えます。

石積み擁壁と、国道18号のオーバーパス。廃線跡としては大事な要素です。
短いトンネルが連続する場所。
坑口にアンカーの跡が見えます。

碓氷線のトンネルには、坑口にアンカーの跡があるものがあります。その昔、明治時代はこの急勾配の路線を蒸気機関車が走りましたが、急勾配でたくさん蒸気を炊かないと登れないので、トンネル続きの区間では、煙で息苦しくなる人が続出しました。それを軽減するために、列車が通過した後に坑口でカーテンを開け閉めする係がいたとか。アンカーはカーテンを固定する役割があったようです。

小さな沢を跨ぐレンガアーチ橋もありました。
こういうのも立派な土木遺産です。

トンネルや大きな橋も素晴らしいのですが、小さな沢を越える小さなアーチや、擁壁など、明治時代に鉄道を通すために作られた土木施設が、今もなお残っていることが素晴らしいです。

そして、少し長めのトンネルを越えて、やって来たのは・・・、
このルートの目玉、碓氷第三橋梁(通称:めがね橋)です。

心地よいウォーキングコースを歩くと、碓氷第三橋梁(通称:めがね橋)に到着します。大きな沢を一跨ぎする巨大なレンガアーチ橋。これが今でも歩いて渡れるということが素晴らしいです。重要文化財に指定されています。

上流側には、昭和にできた新線の橋が見えます。
橋の下には、クネクネ曲がる国道18号の旧道が見えます。
見上げるとこんな感じ。いやー、すごいですこれは。

碓氷第三橋梁(めがね橋)は、この廃線の中でもやはりとてもダイナミックで美しい場所です。橋の上からも、雄大な景色を楽しむことができます。

先のトンネルを歩くと、途中で採光された空間が。
天端部分にも、穴があるので、ここは明かり巻き区間です。
側部を覗き込むと、こんな感じ。

トンネルの一部に、ロックシェッドのような明かり巻きの場所がありました。外側もレンガ積みの構造なのですね。

レンガアーチの橋梁です。必ず信号等のケーブルを吊るすブラケットの
ようなものが付いているのが特徴です。
様々な色合いのレンガが見えています。
美しい橋は第三橋梁だけではありません。
やはりどの部分も美しいのです。

橋もトンネルも、レンガがふんだんに使われた構造物であり、明治時代の国家の威信をかけたプロジェクトであったため、どの構造物もとても重厚で美しいものです。そしてこの道が行きつく先が、こちらです。

煉瓦のトンネルを抜けると、新線の廃線跡と合流します。

旧熊ノ平駅跡に到着です。平成まで現役だった鉄道施設です。アプト式の鉄道だったころは、ここに駅があり、列車の行き違いも行っていました。

近代的な単線並列のトンネル。
旧線のトンネルの隣に、さらにもう1本トンネルが。

熊ノ平駅跡には、4本トンネルが見えます。2本が新線の複線トンネル、1本はアプトの道になっている旧線トンネル。あともう1本は、引き上げ線のトンネルです。平地の区間が限られていたため、長い編成の列車はこのトンネルに頭を突っ込んで対向列車と交換し、バックして再び発車する形だったそうです。

小さな川の橋は、新線はヒューム管になっています。
旧線はレンガアーチ。時代の違いを感じます。
横川側の全景。新線も駅は無くなりましたが、信号所はあったので
広い構内です。
変電所もありました。こちらも平成まで現役だったようです。
長いプラットフォームの先は、軽井沢側。
ここからは一般者通行止めです。左が旧線、右が新線。
旧線は、ここからは新線に沿ったルートです。

熊ノ平駅は、昔は機関車の給水などのポイントで、沢山の鉄道員がいたそうです。前回の記事で紹介した玉屋の力餅も、この場所で営業していました。

碓日嶺鉄道碑

明治時代に鉄道を建設した記念碑です。軽井沢駅近くにあった石碑ですが、関東大震災で倒壊し、この地に移設して補強したものだとか。山形有朋が揮毫したものです。これは素晴らしい解釈をしてくださっている方がいるので、そちらを引用します。

http://geo.d51498.com/gunmakaze/column/18usuirei.pdf

こちらは、熊ノ平神社。

熊ノ平神社と言う名前の神社があります。「JR一ノ宮」となっています。由緒を見ると、昔は中山道の脇道にあった祠のようですが、鉄道が通じてからは、鉄道員の安全祈願を行う場として大切にされてきました。そういう意味で、「JR一ノ宮」として大事にされているようです。この神社は、今は旧中山道の碓氷峠の頂上にある、「熊野神社」が管理しているようです。おそらくこの「熊ノ平」という地名も、中山道の熊野神社に由来したネーミングだったのでしょう。

熊ノ平神社の由緒案内
その脇にある、熊の平殉難碑

神社の脇に、「熊の平殉難碑」と言うものがあります。石碑の文面、引用します。

昭和25年6月9日朝、この静かな碓氷の山峡に山崩れが起きて、作業中の職員と家族を一瞬にして埋め去りました。
鉄道の安全を守って犠牲となられた50のみたまに行き交う人々と共に哀悼を捧げたいと思います。
           日本国有鉄道総裁 加賀山之雄

裏には犠牲者のお名前とともに、趣意書があります。

石碑の裏の趣意書、こちらも印象的なので引用します。

この碑は全国の国鉄職員から寄せられた浄財をもって建立されました。あの大事故によって殉職された方のみたまを永久に祀らんとするためのものであります。
 昭和26年6月9日 
 日本国有鉄道高崎鉄道管理局 日本国有鉄道労働組合高崎支部

事故から1周年の時にこの石碑を除幕したようですね。いろいろな思いの詰まった石碑だと思います。
この事故、当時の映像がNHKに残っていますので紹介します。

崩れたのは、この斜面だと思われます。治山工事がされていました。

アプトの道を歩いて熊ノ平駅まで歩くウォーキング、とても楽しかったです。今回はここまで。次回は復路で、今度は国道18号などから碓氷峠の廃線跡などを違った角度から眺めていきます。

【終わりに】
とてもきれいに整備されたアプトの道の遊歩道。初心者にも安心して歩けるとても素敵な廃線跡です。時折平成まで現役だった施設などもあり、見どころ満載の場所です。次回はそれを少し違った角度からマニアックに(笑)歩いてみたいと思いますので、お楽しみに。

(続きはこちら)


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