
【読書感想文】正しさがわからなくなる物語『人魚の眠る家』
読書ブームがきてから初めて、東野圭吾作品を読む。
『人魚の眠る家』東野圭吾
これまで書くのは好きだけど活字を読むのは苦手……とよくわからないワガママを通してきた私は、著者の名前やタイトルを知るばかりで作風などは一切前情報もなく、ただただ新鮮な気持ちで読ませていただきました。
正直、この本の感想を言語化するのは難しいなぁ、というのが本音です。他の方の感想もあれこれ覗き見しつつ、自分の感情は「恐ろしい」とも「感動」ともまた違うんだよなぁ、と唸るしかありません。強いて言うならこのモヤモヤした感情こそが感想、となら言えるかなと。
今回は曖昧なまま、頭の中の整頓もかねて読書感想文を書かせていただきます。(整頓のため物語の核心もお話ししてます、ネタバレしておりますのでご注意ください)
1.自分の立場ならどう思うだろう、が通用しない
物語は娘の脳死判定について考える、周りの人たちの心情が描かれています。
私はこの本で脳死というものについて色々知ったのですが、一番衝撃だったのは、脳死とは「人の死ではない」という点。脳が機能していない、と医師が判断したら、脳死テストというものを実施し、その結果で脳死と判定されるだけなのです。
娘が死んでいると判断するのは、医者だけ。
その医者が、脳死だと思われるのでテストをします。テストを受けたらその結果によって、脳死と判定します、と言うのです。
つまり、テストをしなければ、脳死という判定をされることもない。
これは、あまりに酷な話だと思います。
脳死テストは両親の要望を聞いて行われます。両親は、娘の脳死を確定させるためのテストを受けるかどうか、選択させられるのです。極端な言い方をすれば、娘が死んだと認識するかどうか、自分たちが決めるようなものです。
娘の様子を見れば、チューブに繋がれ処置を受けている。今も懸命に生きようとしているようにしか見えない。端から見れば今はただ、眠っているだけ。そんな様子を見ながら、いつか目を覚ますかも知れないという期待を、自らの手で叩き壊すような選択を強いられます。
医師に「目を覚ます可能性はほとんどない」と言われ、実際に目を覚ました例がないと知って、その選択が合理的だとどこかで思いながら……それでも、眠っているかのような娘の手を握ったとき、ぴくりとその小さな手が動くのを感じたら。それが、脳が機能していなくても起こる、反射の一種だと説明されても、奇跡を期待せずにはいられない。それが、親の心理ではないでしょうか。
……とはいえ、そんなこと常人には想像もつかない、というのが本音と思います。
作中で同じ事を話す人物もいますが、もしも自分の子が同じ目に遭っていたら、を想像するのはあまりに難しい話です。そんな悲しい可能性を想像したくはないし、実際にそうなったとして、上手な決断などできる自信などない、というのが真実でしょう。
そんな苦しい選択を、娘に起こった悲劇を飲み込む暇すらなく、眼前に突きつけられるところから物語は始まります。両親の選択は、脳死テストの拒否。娘が生きているのか死んでいるのかもわからないまま、様々な大人達が眠り続ける彼女と関わっていきます。
2.悪人はいない、だが正しい人もいない
この物語において、わかりやすい悪人というものはいません。
誰かの性格が最悪で、とんでもない悪いことをしたから、被害者になった人がいる。そういう話ではないのです。ただ、清廉潔白で、まごう事なき正義を持った善人、というのもあまりいません。誰もが自分の信念を胸に、信じた道を歩こうとしているだけです。(敢えて言うなら、娘の母親が娘のために狂う様は、悪人に近いかも知れません。その程度です。)
むしろ、この問題における正しさとは何なのか。
そんなことを考えてしまう、まるでトロッコ問題のようなお話です。脳死判定をすれば、両親の意思の元、臓器提供ができる。どこか知らないところで、歳の近い子供が救われる。読者という第三者なら「それが最善なのではないか」と、考えることはできます。
しかし、当事者にとっては違います。
物語の中で娘は両親に手を尽くされ、本当に眠っているだけに見えるのです。努力の甲斐あって体は健康そのもの、最先端の技術で手足が動かせる。表情も少し作れる。そんな、今にも目を覚ましそうな姿の娘を見る母親に「娘さんは死んでいますよ」と誰が言えるのか。誰がそんなことを、言えるのでしょうか。
「患者か、死体か…(中略)…たぶんこの世の誰にも決められないんじゃないでしょうか」
作中の医者の台詞です。
脳死という状態がどのようなものなのか、物語の中で詳しく説明されていますが本当に難しい話です。そのややこしさ故に、誰も断定できない。人の脳というものを完璧に理解した医者がいるわけでもないため、脳の機能が完全に停止したと診断できる人はいないのです。絶望的な状況から、回復したように見えることさえ奇跡なのに、娘は「眠っているだけ」に見えるほど見違えた。なぜここから、絶対に回復することはない、娘さんは死んでいますと言えるのか。魂の在処は、どこにあるのか。
物語では色んな考えを持った大人が、脳死の娘さんについて考えます。両親だけではありません。けれど娘に一番近いのは母親です。ずっと介護をして、ずっと目を覚ますことを信じて、生涯を娘のために捧げんとする勢いです。一番娘をよく知っているこの母親を差し置いて、誰が何を言えるのか。
けれど、だからといって気の済むまで娘の世話をさせていれば、どこかで綻びが出るもの。大人は事情を察して話を合わせたりもできますが、全ての人間がそうしてくれるとも限りません。娘の近くにいた子ども達も、例外なくその綻びに苦しむことになります。
3.残酷で正直な子供の声
娘には弟がいました。彼が小学生になった頃に、今までのツケが貯まりに貯まって、爆発するように地獄が責め立ててきます。
母は最後に、自分は狂っていたと自虐的に話すシーンがありました。
確かに彼女に対し「周りのことも考えてよ」と言いたくなるような場面はいくつもあります。例えば弟関係で言えば、彼の入学式に娘を連れて行ったり、彼のお誕生日会に彼の友だちを呼ばせて、そこで娘をお披露目しようとしたり……。
そんなことをすれば、残酷な子供は遠慮なく「お前の姉ちゃん、死んでるんだろ」なんて暴言を浴びせるに違いないのです。
このシーンは本当に残酷で、母親のくせになんてことを!弟のことも考えてやれ!と思った人も多いんじゃないでしょうか。自分の行いのせいで、息子がいじめに遭っている。それなのに、自分の行動を顧みるどころか、泣いて抵抗する息子に「友だちを呼びなさい」と頬を引っぱたくのです。なんてひどい。
けれど、やはりどうして、その行いを誰かが止められるのでしょう。
いつか奇跡が起こるかも知れないと、娘を信じたい母親を誰が責められるのか。確かに弟への態度は許されることではないけれど、それを止めようとすると「弟の言うことは正しい。だってお前の娘は死んでいるのだから」と態度で示すことになる。
これは薄々、母親も感じていたことでしょう。時が経つにつれて周りの大人は、奇跡は起きないのだろうと諦めていると。お前の行いは、娘を使って素敵な母娘ごっこをしたいだけなのではないか、と皆が思っているんじゃないか。
ここで娘を諦めたら、自分が自分ではなくなってしまう。
母として娘に出来ることをし尽くす。そうしなければならない、そうしなければ自分は、どうしようもなく崩れ落ちて、何事もできなくなる。なにもかもままならなくなる。そう感じて、娘のためというより自分のために、意地になっているのではないか。
物語の途中まで読んだ段階では、私はこんな感想でした。
でも、たぶん、母親にとってはそうではなくて。
奇跡を待っているのではなくて、自分に出来ることを尽くして、娘との時間を大事にしているだけだった。盲目的で、確かに周りの人への配慮は欠けていた。けれどそれは、家族にすら娘との時間を否定されているような心地のせいで、周りの誰もが敵に見えてしまったせいだった。
ただ、それだけなんじゃないかと。
自分自身も娘の脳死を認めた方が合理的で、正しい選択なんじゃないか。そう自分の心が揺らいでいたからこそ弱ってしまい、苦しんでいた。それこそ、周りの言葉に耳を貸す余裕もないほど、追い詰められていた。大事な娘を失いそうになったからこそ露わになった、人の一番弱いところだったのではないかなと、思います。
4.最後の幻
この物語を読んでいて強く感じたのが、とても淡々とした印象を受ける文章です。
娘を失うかどうかの瀬戸際で、常人には理解しがたい激情が、心の中に渦巻いていたっておかしくないはずなのに、文面ではそれをあまり感じないのです。そのために、第三者としてすごく冷静に、この物語を読み取れてしまったのかなと思います。あくまで私の印象が、ですけど。
台詞さえ淡々としていて、あまり抑揚もないんじゃないかと思うくらいで、三人称視点なのもあってまるで鏡のようなのです。そこに映る感情については「読者が感じたように映し出してくれれば良い」と言われているような気さえしました。
その上で、最後に母親が娘の魂とお別れをするシーンを見たならば。
それは母親の願望が生み出した幻覚なのか、それとも、本当に魂はずっとそこにあって「生きていた」のか。ずっと脳死=人の死として、諦めるべきだと思いながら読んでいた方が、もし、後者の意味で受け取ったら、どう感じるんだろうかと……。
いやもうほんと、皆さんどうこの物語を受け取ったんですか。色んな視点、色んな立ち位置があって、自分ならどれに近いかとか考えましたか。どの立場でこの母親に、何を言うと思うかとか。気になって仕方ないです。
この鏡のような印象こそ“この物語の当事者ではなく、他人でいられるうちに、一度向き合っておくべき答えのない課題の提示”なのではないか、と私は感じました。
5.最後に
私自身、身近な人の死を経験したことはほとんどありません。祖母の葬式に参加した記憶はありますが、帰省もほとんどなかったので、祖母は会ったことのないおばあさんでしかなかったのです。そんな私ですが、小学生の頃、クラスメイトの身内の不幸でお葬式に向かった記憶があります。
そのクラスメイトは本当にただ、教室が同じなだけの女の子でした。仲が悪いわけではなく、でもほとんど話したことはありません。その子がさめざめと泣いているのを見て、私はなんと声をかければいいかわからず、ただ黙っていることしかできませんでした。
私と一緒に来ていた、自分と同じような立場のはずの友人達が「元気出して」「泣かないで」と励まして、それに頷いているのが辛そうに見えて仕方なかったのです。
泣かないでなんて、なんで言えるの。
これだけ泣いてるのに、悲しいに決まってるのに、どうして気の済むまで悲しませてやらないの。そっとしておいてあげたい。こんな、ほとんど話したことのない自分なんか相手にせず、静かにさせてあげたい。
そう思って、黙っていました。
母はそんな私に「何か声かけてあげなさいよ、冷たいわね」と叱りました。それでも、私の口からは何も言葉は出ません。未だに、声をかけるなら何が正解だったんだろうと考えることがありますが、答えは見つかっていません。
この物語の母親に対しても同じで、私にはどんな言葉が正解か、あるいは最善か、わからないのです。何度も心を推し量って、たぶんそうじゃないなと打ち払って、それでもまた考えて。その繰り返しをするほかないのです。だって、わかるはずがないから。
絶対的に正しいことがわからなくなるこの物語の中では、自分ならどうするだろうという想像はあまりに無力で、けれど考えるのを辞めることは出来ない。堂々巡りの空回り、そんな思考を続けることこそがこの物語の一つの解かなと、思いました。