西野智彦著『ドキュメント通貨失政 戦後最悪のインフレはなぜ起きたか』
(岩波書店、2022年)
1971年8月のニクソン・ショックから、同年12月のスミソニアン協定、73年の変動相場制移行、石油危機、そして74年の狂乱物価とスタグフレーションにかけて、大蔵省や日本銀行の首脳陣の間でどのように意思決定が行われ、結果的に「失策」と回顧される過程をたどることとなったのか――。
『平成金融史』『ドキュメント日銀漂流』などで知られる屈指のジャーナリストが、さまざまな資料を博捜して探求した歴史ノンフィクションである。
当時、円の切上げは、金解禁と結び付けられて記憶されていた。1930年、濱口雄幸内閣において井上準之助蔵相が、実態よりも割高な旧平価による金解禁を断行したことが、昭和恐慌、そしてのちの軍部の台頭を招いたのだった。
しかしニクソン・ショック以前から、国際収支の構造変化により1ドル=360円の固定相場を維持することに無理が生じていることは認識されていた。1969年には大蔵省内で秘密裏に、円切上げの検討もされていたという。
いざ実際に危機が生じると、通貨に責任を有する者たちの腰は重かった。為替市場を閉めるかどうかの決断を迫られ、「ノー・ディシジョン」によって市場を継続。結果的に平価維持のため大量に円売りドル買い介入を行うこととなり、過剰流動性の萌芽を引き起こす。やがて円切上げがもはや避けられない事態になると、不況対策として財政出動にも乗り出し、異常な緩和状態に拍車がかかる。
国際収支の不均衡をめぐって欧米から圧力がかかると、政界ではインフレによる国内の景気浮揚によって、内需を喚起し、経常黒字を縮小させるという「調整インフレ」論を主張する向きも登場。首相が日本列島改造論の田中角栄になれば、大蔵省も主計局でさえ自ら予算増額の先導を切るような大盤振る舞いになり、過剰流動性はもはやのっぴきならないところまで膨れ上がる。
金融引き締め待ったなしの段階に入るも、予算審議を理由に大蔵省の同意を得られず、踏み切った際には時すでに遅し。引き締めによるデフレと、石油危機に端を発する物価上昇が同時に押し寄せるスタグフレーションへと発展してしまう。
本書は一連の失策を、米国を始めとした各国の思惑や、国内の政治家による翻弄のみに負わせる内容ではない。大蔵省内の財政畑と国際畑の対立、日銀内における企画部門の発言力の大きさと調査部門の弱さなどが失策の背景で通奏していることが、つまびらかにされている。
さて、本書は興味深いエピソードが満載だが、最も唸ったのはスミソニアン会議(G10蔵相会議)で日本が円切上げを迫られた場面である。
当時の水田三喜男蔵相は、コナリー米財務長官との直接会談を実現させる。水田は、米側の要求には満たないものの、日本の防衛ライン1ドル=315円よりも大幅に増価となる1ドル=308円の案をぶつける。
この時、水田が持ち出したのが、やはり金解禁である。金解禁当時の円の切り上げ幅は17%。水田は「復帰を決めた大蔵大臣は暗殺されてしまった。だから日本にとって17%という数字は不吉なものなのだ。おれは死にたくない」とコナリーに言ったという。
コナリーは、あのケネディ暗殺事件の際に流れ弾を受けた人物である。「ちょっと驚いたような顔」をして「ではいくらならいいのか」との問いに水田が提示したのが1ドル=308円案だった。率にして17%をわずかに下回る。
実は水田は、20%までは佐藤栄作首相からの容認を得ており、結果的に17%弱で妥結したのは勝利と言えなくもない。しかし、おもてで取り沙汰される防衛ラインは「1ドル=315円」であった。水田は悔しさのあまり、G10終了後の写真撮影にも応じず、ホテル自室にこもったほどだったという。
度々回顧される金解禁の禍々しい記憶が、不作為を正当化していくさまは、歴史を実践に生かすことの難しさを教えてくれる。
=2024年8月15日読了