書店で3回「有斐閣ストゥディア」と唱える
レジー著『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち』(集英社新書)では、ビジネスで他者を出し抜くために、効率よく情報を得ようとする人たちが登場する。著者はその背景にある新自由主義や家父長的な思潮を問題視しつつ、本書ではファスト教養を求める人たちが、括弧付きの教養ではなく、よりマシなコンテンツに触れやすくなるための方策を提言している。
とは書いてみたものの、ファスト教養はそこまで問題なのだろうかと思わなくはない。浅ましい人は昔から一定数いるが、多くの人はただ浅ましいだけではないし、中田敦彦の動画を視聴する層のうち、熱心に信奉して、それこそ中田敦彦の動画を見ることが自分のビジネスパーソンとしての価値を上げることになると本気で信じている人は、かなり限られているのではないか。
本来持つ豊かな意義を無視して、元も子もない目的のみに対象を使おうとするものといって最初に思いつくのは『東京いい店やれる店』である。これは飲食店だが、他の分野にもこの手のことはあるだろう。
こと、教養という知的領域に張り出してきた途端に、社会背景がああだこうだと言うのが、どうもカルチャー側の自意識過剰に思えてしまう。まだファスト教養を叩いて溜飲を下げているほうが清々しいが、本書はお節介にも、ビジネスとカルチャーの調停を図ろうとしている。
にもかかわらず他の書評でも指摘されている通り、示された解決策は、ファスト教養にのめり込んでいる人には到底届くようには思えないのが、独り相撲感を増幅させている。いや、義憤に駆られるのは分かるけどさ……、というやつだ。
ただ「解決策」として示されているものは、ファスト教養シンパには多分効かないが、アンチ・ファスト教養派にはそれなりに引っ掛かるものはあろうと思う。自己啓発本だからと無下に拒絶するなかれ、等々、読書の幅を広げうる指摘にはなっていると思う。(結局、元々、文化資本のある人間がどんどん豊かになっているだけじゃないか!)
さて、かくいう私も「教養としての〇〇」とか「よくわかる〇〇」とかが書店のフェアコーナーで平積みにでもなっていたら、手に取りたくなってしまうときがある。どうせ読んでも時間の無駄になるものが多いとわかっているのに、ファスト教養は心の隙間に入り込んでくるのである。
だからフェアコーナーでその手の本を触ってしまったら、心のなかで「有斐閣ストゥディア」と3回唱えて、一目散にそれが置いてありそうなコーナーへ行くことにしている。
社会科学の本読みならご存じの方も多いと思うが、有斐閣ストゥディアは、主に社会科学分野に関する初学者向けの教科書シリーズだ。大学の教科書というのはとっつきにくい部分もあるが、その分野においてある程度体系的に理解しようと思えば結局、大学の教科書が一番手っ取り早い手段なのである。
有斐閣ストゥディアは、その中でもより入門寄りのシリーズと言える。「はじめての~」「~の第一歩」といったタイトルの本はもちろんのこと、「問いからはじめる~」のようにイメージしやすいアジェンダを手がかりに学べる構成の本もあり、まず本書を一通り読めば、その分野の見取り図をつかめるというものである。
というか、普通にこの手の本で勉強したら、ファスト教養の何倍もすぐに役立つ知識がいくらでも手に入ると思うし、むしろコスパが良いように思うのだけど……。