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『こわれゆく女』『ラヴ・ストリームス』~早稲田松竹「ジョン・カサヴェテス特集」から

『こわれゆく女』

(ジョン・カサヴェテス監督/1974年/アメリカ/147分/カラー/ビスタ)

 カメラのピントがずれようがカットがつながっていなかろうが、問題とはしない。そういう態度で撮影され、編集されるからこそ、俳優とカメラとの相克がそのまま、映画内世界における人物と空間との相克として、観客に受け止められる。ピントのズレは空間の不安を意味し、唐突なカットの切り替わりは空間の混乱を表す。

 しかし圧力は必ず開放路を(ときに暴力的に)こじ開けるものである。(ここで「水は低い方へ流れる」という惹句を連想した)

 半世紀前(ちょうど50年前!)に、既に、抑圧と解放の絶えざる反復という「現象」が映っていることには驚くばかりだが、本作が告発を趣旨としておらず、あくまでも人間の悲喜劇を意図して作られており、実際にそうなっていることに感動するのである。

『ラヴ・ストリームス』

(ジョン・カサヴェテス監督/1984年/アメリカ/141分/カラー/ビスタ)

 『こわれゆく女』に比べ、より演劇的で、カメラが空間を定義せずにはいられないという問題を前景化してはいない。

 鑑賞は2回目だが、今回見直して本作が映しているのは「愛」が「慣性」になる前の瞬間と、「慣性」になった後の長い時間だと思えた。

 人間が行動を意図し、実際にそのように動かそうとするも、想定以上に身体は動いてしまうということがある。その慣性を悲しく思ったり、愛おしく思ったりする気持ちを画面から感じるのである。

 ジーナ・ローランズ演ずるサラの一発ギャグ大会(!)はまさに、自分では止められぬ「愛」が暴走していく世界だ。一度、慣性と化してしまえば、もうそれ自身によって止まることはない。そして、慣性はいつも、他者によって受け止められるとも限らない。しかしサラは「愛」を間断なく発現させ、慣性を引き起こし続ける。

 この執拗な「愛=慣性」が、現象としてではなく意図された行動として人が起こしている様を、カサヴェテス演ずるロバートは見てしまい、取り憑かれてしまったのではないか。それまでロバートが簡単に得られてしまった愛は、すでに慣性となって人の手を離れた愛だった(と彼は感じていた)が、サラの振る舞いには、愛がまだ慣性になる前の愛を感じることができたのだろう。

 愛を注ぐ瞬間のおっかなさ、慣性になった後の気まずさ、にもかかわらず受け止められる奇跡の愛おしさ。それらがすべて描かれた本作が、カサヴェテス作品の一つの到達点として語られるのも頷ける。

=2024年6月17日、早稲田松竹で鑑賞。

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