濱口竜介監督『何食わぬ顔』の、肌に触れるまでのサスペンス
大阪・十三の第七藝術劇場で開催中の濱口竜介特集「映画と、からだと、あと何か」の中で、濱口が東大映画研時代に撮った8ミリ映画『何食わぬ顔 (long version)』(2002)が上映されていた。筆者の鑑賞は3回目である。
動いているものを見る喜び、人の顔を見る喜び、人が人に視線を向けているのを見る喜び等々、映画を見ることで得られる喜びのうち重要ないくつかが8ミリの粗い画面に凝縮されていて、得も言われぬ感動がある。
中でも最初の鑑賞から強く印象に残っているのが、劇中映画パートの後半、帰路のモノレールで石井理絵が辞書を朗読するシーンだ。好意が、語釈文という端的な文章のリズムに託されていく状況に、観客も愛おしさを覚えること間違いなしである。そして、「夏」から始まった朗読は「撫でる」に到達した刹那、石井の指が松井智の頬に触れる。
人が人の肌に触れる瞬間までのサスペンスは、少し前のシーンでも出てくる。競馬場の通路でしゃがみ込む岡本英之と遠藤郁子が手を重ねるシーンである。
カットが始まってから手を重ねるまでには少し時間があるが、互いの好意を知っている男女が黙ってしばらく座り込んでいる場面ですることといえば手をつなぐことだろうと容易に想像できる。だから、このシーンのサスペンスは、結末がどうなるかではなく、いつ結末に到達するかだ。
カメラは遠くから2人を正面に捉えており、その手前には行き交う人々が映るので、2人が見えなくなる瞬間が頻繁に発生する。その瞬間の間に手が動き、手が重なるまでの間、画面上はその運動は連続的ではなく、まるで画面が点滅するかのように離散的に描かれる。これがサスペンスを増幅させている。
一方、モノレールのシーンは、車内での辞書の朗読という異様な事態が進展しており、こちらは結末がどうなるかをめぐるサスペンスだ。実は「撫でる」の前に「撫で上げる」「撫で斬り」といった単語が登場するが、初見の観客の多くは、その後に石井が実際に撫でる動作をすることになろうとは思わないだろう。
本当は石井は「撫で上げる」「撫で斬り」を読んでいるときには、逡巡に入っているかもしれない。しかしそこは〈何食わぬ顔〉で読み進め、「撫でる」で初めて頬に触れるのである。あっ、と声が出そうになるような決定的な瞬間だ。
前半部のサッカーシーンや、空港で瀬田英子(石井理絵)がアルバイト先へ電話をいれるシーンの、動きをしつこく延々と追い続ける演出をした映画が、同時に2種のサスペンスをもやってみせていることに驚く。
=2024年9月19日、第七藝術劇場で鑑賞