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2024 読書この一年

 その年に読んだ本の中から特に印象深いものをご紹介する歳末恒例企画「読書この一年」をお送りします。2024年の読了冊数は81冊で、昨年が86冊でしたから微減となりました。積読本がどんどん増えていくのが情けない限りですが、それでも、今年も面白い本に多数巡り合うことができました。


歴史

松沢裕作『歴史学はこう考える』

◆ちくま新書、9月11日発売、10月1日読了

 今年読んだ本の中で最も推したい一冊です。歴史家が史料を読み、解釈し、議論を行うとき、具体的にどういう作業を経ているのかを書いた一般書です。

 歴史家が「知りたいこと」は個々に異なっているといいます。知りたいことがバラバラなのであれば、研究者次第で研究の結果がバラバラになるように思われますが、実際にそのようなことが起きないのは「史料の制約」があるからだといいます。

 ある主題についてまともに史料を読んでいる限り、その史料を使って立てることができる問いは、史料によって限定されています。問いが限定されている以上、言えることには限りがあり、研究者どうしの対話(論争と言いかえてもよいです)の土俵がその史料によって決められ、議論は一定の範囲に収まることが期待できるのです。

148ページ

 ここで書かれた歴史学での対話の在り方は、著者自身「やや理想的に描いている」とはいいつつも、史料という制約こそが歴史学発展の源泉であることを端的に示しており、腑に落ちるものです。では史料はどのように「制約」となっているのか、史料をどのように扱えば、対話の基礎となるのかの具体的な方法は本書内で詳らかにされています。

 基本を忠実に解説することに徹底した本書の姿勢ゆえ、一般読者の生活実践にも有用な面がある、射程の広い本になっています。

満薗勇『消費者と日本経済の歴史――高度成長から社会運動、推し活ブームまで』

◆中公新書、8月20日発売、9月8日読了

 こちらも優れた新書でした。人々は社会に貢献したいという意識を持ちつつも、その貢献の経路は時々の社会構造や思想によって調整され、ときに意識自体が漂白されるようなこともあったかもしれません。私たちの意識はどのように集合され、行動に転化されてきたのかを、消費行動を軸にたどる切り口が非常に面白かったです。

高岡裕之『増補 総力戦体制と「福祉国家」――戦時期日本の「社会改革」構想』

◆岩波現代文庫、7月17日発売、10月15日読了

 2011年の単行本に補章を付した文庫化。日本の福祉国家的な社会保障体制が、戦時期の国家総動員体制の産物であるという考え方を巡り、現代の制度の淵源をたどるような遡りの歴史ではなく、同時代の資料や言説を分析することにより検証した研究です。

 著者の分析によれば、戦時社会政策とは、国民の体力(すなわち兵力)の管理・向上を志向する「衛生主義」、主に工業の生産力確保を志向する「生産力主義」、民族の維持を志向する「民族主義」等、さまざまなイデオロギーの合従連衡の末に、決して一枚岩ではない形で医療制度、人口政策、年金、住宅政策等が絡み合い、複雑な様相を呈したものだったのです。

 個々の政策の中には、確かに戦後に引き継がれたものもあれば、途絶したものもあり、また枠組みとして残されたとしてもその内実が変わってしまっているものもあります。連続と断絶をつぶさに見つめつつ、総体としては現代とは異なるあり様であった戦時社会政策の全体観をまとめている点で非常に面白く読みました。文庫化で付された補章の高田保馬論も、彼の人口論の特異さと、彼の主張が当時の政策ブレーンにどのように影響を与えていたかを明らかにしています。

木村幹『全斗煥――数字はラッキーセブンだ』

◆ミネルヴァ書房「ミネルヴァ日本評伝選」、9月9日発売、9月21日読了

 12月3日に尹錫悦・韓国大統領が発した「非常戒厳」で、図らずもタイムリーな本になってしまいましたが、その話題性を抜きにしても読み応えのある評伝でした。光州事件を起こし、訃報の見出しにすら「虐殺者全斗煥」と打たれてしまう嫌われ者の大統領です。

 前半、高級将校へと出世していくプロセスからは、決して成績優秀とはいえぬ一方、日本式ではなくアメリカ式の開放的な教育を受けたこともあってか、どこかチャーミングで上官の覚えはめでたい、という全斗煥のキャラクターが垣間見えます。一方、権力を掌握するにつれ、強引な手法ではありつつも押さえるべきポストや権限を着実に押さえていき、自身を正当化しつつ他者を抑圧していく冷酷さも見えます。

 正当化の論理にしばしば使われたのは「反共主義」でした。通常、韓国現代史の「語り」においては植民地解放に関わる「民族主義」、経済や社会の発展を示す「民主化」、政治的自由と平等を求める「民主主義」が三大イデオロギーとしてよく持ち出されます。しかし、軍人としてのキャリアしかなく、終戦時もまだ幼かった全斗煥には、三大イデオロギーに基づく「語り」はできず、その代わりに「反共主義」が看板となったのです。

 その意味でも、本書刊行後に起きた2024年の非常戒厳においてもまた反共・反北朝鮮がお題目となったのは、本当に衝撃的なことでした。

政治

吉弘憲介『検証 大阪維新の会――「財政ポピュリズム」の正体』

◆ちくま新書、7月10日発売、12月15日読了

 大阪維新の会の政策の特徴を財政分析の観点から概括した本です。

 民営化や競争入札拡大等で、従来の公共サービスを縮小する一方で、私学補助を含む教育無償化政策など実は普遍主義的な支出も打ち出す「矛盾」が維新の政策の特徴です。この「矛盾」をつなぐのは、財政そのものに対する不信です。

 通常、普遍主義的な支出は、受益者の拡大を通じて政府や財政による再分配への支持を増やすと考えられてきました。しかし、維新のように財政の総額を増やさず、マイノリティーへの配分を減らしてでも全員にまんべんなく配るという財政の在り方は、社会のニーズを十全に満たすものではないので、政府や財政への支持を増やすものにはなりません。

 財政ポピュリズムは、価値によって集合した経済行為を、個人の利益に繰り戻すことで支持を調達する手法である。それは『集合的経済行為=財政』の根源的否定をはらんでいる。

 だからこそ、維新肝いりの政策であり、共同負担による共同利益の最たるものであるはずの都構想や万博について、支持調達に苦労しているのだという見立ては、大阪府民としての私の生活実感にも沿っていて腑に落ちるものでした。

 また維新の政策分析を通じて、財政とはそもそもどういうものなのかという基本を理解することもできる啓蒙書にもなっている懐の広さは、新書にぴったりな企画だと思いました。

軽部謙介『人事と権力――日銀総裁ポストと中央銀行の独立』

◆岩波書店、7月30日発売、8月16日読了

 日銀総裁の選出過程を巡るルポルタージュを通じて、現状の政治任用のあり方に継承を鳴らす一冊です。

 新日銀法によって日銀が勝ち取った「中央銀行の独立」は、裏を返せば日銀が大蔵省の庇護から離れて、真正面に政治と対峙することを意味します。しかし法改正当時、日銀は、大蔵省の権力がここまで弱くなるとは想定しておらず、人事権を巡る議論は不十分だったことが示されます。

 安倍政権はこの盲点を突くように日銀を、人事を通じてコントロールしていきます。サブタイトルでは「日銀総裁ポストと中央銀行の独立」とありますが、正副総裁にとどまらず審議委員ポストもリフレ派委員で独占させようという野心を見せていました。政治任用色が強まると、チェック・アンド・バランスを期待して作られた合議制の政策決定が機能しにくくなるのです。

 本書の内容からは離れますが、植田総裁就任以降、政策決定会合で審議する内容が事前に報道機関によってスクープされることがかなり増えています。こうした既成事実化を通じた政策決定会合の骨抜き化は、安倍政権下の日銀人事への野心が準備した末路のようにも思えてきます。

 とはいえ、日銀に政治が手を突っ込むこと自体は、自民党下野前の民主党も狙ったことであったわけで、党派を問わず、政治と中央銀行との距離感をどのように保つかがいかに難問であるかを感じざるを得ません。

岡田彰『官僚制の作法』

◆公職研、5月17日発売、10月13日読了

 橋本行革の分析を中心に、日本の官僚制が省という自律的組織の連合体としての性質を強く持つことを改めて示した本です。橋本行革の「省庁半減」を前に、各省がレゾンデートルを書き換え、生き残りを図ろうしたことをめぐる関係者の証言や記録の生々しさは圧巻です。

和田泰明『ルポ年金官僚――政治、メディア、積立金に翻弄されたエリートたちの全記録』

◆東洋経済新報社、4月10日発売、5月25日読了

 日本の年金制度をめぐる官僚と政治の相克を、主に官僚の視点からルポルタージュした一冊です。

 「早産児」として制度的安定に欠くところからスタートした国民皆年金は、社会保険としての権利性、高い専門性を要する年金数理等に由来するわかりにくさを持ちます。その結果、政治の側からは「100年安心」、官僚の側からは「マクロ経済スライド」といったごまかしのフレーズが多用され、そのことが余計に制度の理解を複雑にしています。

 たまり溜まった国民の「年金不信」とは裏腹に、厚労省側からは次なる改革の意欲は見えず、専門家にしてみれば実際にその必要性も喫緊のものではないようですが、このギャップがこれから埋まることはあるのでしょうか。

ジャーナリズム

木下浩一『新聞記者とニュースルーム――一五〇年の闘いと、妥協』

◆新聞通信調査会、5月31日発売、9月22日読了

 記者の取材した情報が編集され、新聞の形にできあがるまでの流れにある各職能のルーチン(日常業務)を分析し、日本の新聞報道がその時代にどのような制約に直面してきたかを明らかにした研究書です。海外では盛んなゲートキーピング理論にもとづくマスメディア研究も、日本の新聞報道についてここまでまとめられた研究は従来なく、画期的だと思われます。

 政治部、経済部、社会部それぞれのニュースソースの性質の違いが、記者の行動や意識にどのように影響し差異を生んでいるか。人事制度が記者のキャリアアップのあり方をどのように規定しているか。技術革新による工程の変化が記者のルーチンをどう変えてきたかなどが見えてきます。

武田徹『神と人と言葉と――評伝・立花隆』

◆中央公論新社、6月7日発売、11月1日読了

 政治からサイエンス、宗教まで幅広い分野にわたるジャーナリスト立花隆の足跡を、彼が最も影響を受けた著作として度々話しているウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の有名なフレーズ「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」を軸に整理してみせています。

 無教会主義のクリスチャンの両親のもとに生まれ、反抗期には毎週日曜にキリスト教会へ通い、哲学の学生時代には詩作にもふけった時期もあったといいます。そんな立花だからこそ「語り得る言葉の領域に留まるルールをおのれに課し続け、語り得ないものを語ろうとする世間の誤りを厳しく批判し続け」つつ、同時に「『語り得ない』と思われていることの中に『語られていない』だけのものが混じっている場合」には「それまで語られてこなかったことを改めて語り直して『語り得ない』限界の境界線を正しく引き直す」ことを続けたというのが著者の見立てです。

 『田中角栄研究』は語られていないことの語り直しであり、『臨死体験』なども語る方法を編み出す実践だったと捉え、一口には捉えがたかった立花の目指すものの理解を促します。そしてだからこそ、『臨死体験』の立花を「前のめりになっているテーマである場合、頭から信じてかかりがちな傾向が勝るように思える」と批判するなど、立花の限界もまた見通せるようになっています。武田の腕が鳴った素晴らしい仕事です。

映画

濱口竜介『他なる映画と』

◆インスクリプト(全2巻)、7月3日発売、6月29日読了=先行販売で入手

 『ドライブ・マイ・カー』『偶然と想像』『悪は存在しない』などで各賞を総なめにした映画作家の講座、評論をまとめたもので、必携書となりました。

 映画におけるショットには、人がふつう見逃すようなものも完璧に写し撮ってしまう「記録性」という本性があります。一方、ショットはフレームの内外や記録の開始・終了時点によって切り取られた「断片性」というもう一つの本性も持ちます。ショットの断片性は、逆説的にその外部にある空間の広がりを示すことから、断片性は「ショットが持っている記録の力をフィクションの側へと解放さえするものであった」といいます。

 本来、映像記録としての証拠能力を損なうはずの断片性を「弱さ」というのならば、「その弱さを介してのみショットとショットは互いにつながり合うことができる。世界から引き剥がされた薄皮のような断片であるがゆえに、それは他の断片とまったく新たな関係を打ち立てることができる」と濱口は解説してみせるのです。

 濱口の映画作りは、俳優の身体性を記録するために徹底的に感情を抜いた本読みを繰り返すことで有名です。自分と相手が他者同士であるまま、しかし、なにがしか「新たな関係」としかいいようのない関係が生まれる奇跡を、私たちは濱口作品の画面の中に何度も目撃しています。

 その圧倒的なドキュメンタリー性ゆえに、ともすれば「演劇」の領域として語られかねない奇跡を(もちろんそういう語りもあってよいのでしょうが)、「ショットの本性」との相似関係を提示することによって「映画」の領域として語ることに成功しているのではないでしょうか。

 このように書いてしまうと、すごく観念的な本に思われるかもしれませんが、実際の映画のシーン写真や脚本がふんだんに引用されており、まるで映画を見るかのように読める本になっています。そして引用されている写真だけでも、そのショットの魅力が伝わり、ちゃんと映画が見たくなるという点でも、類書を圧倒しています。

塙幸枝『スクリーンのなかの障害──わかりあうことが隠すもの』

◆フィルムアート社、11月26日発売、12月13日読了

 映画による障害の描き方を巡る分析書です。「『わかりあう』ことや『伝えあう』ことのみをコミュニケーションの成功とみなす」ことを「狭いコミュニケーション観」と位置付け、むしろ障害をめぐる多様な関係の結び方を阻害しかねないものとして批判します。

 その上で本書の優れている点は、単にストーリーやキャラクターの設定を論じるのみではなく、映画内で音楽や映像がどのように構成されているかを踏まえた上で、その構成が観客にもたらす鑑賞体験を分析していることです。

 その白眉が「聞こえない」ことの表象をめぐる第4章の分析です。聞こえないことの「再現」シーンが、映像と音の相互関係に支えられており、実際の再現ではなくあくまで聞こえるものの鑑賞体験を前提としたものであることに注意を向けます。その上で三宅唱監督『ケイコ 目を澄ませて』の日記朗読シーンにおける、複層的な主体・時間の描写を分析し、本作を貫く「聞こえる」ことを通じて「聞こえない」ことの理解を促すアプローチの達成を浮かび上がらせています。

エッセイ

安田謙一『神戸、書いてどうなるのか』

◆ちくま文庫、6月10日発売、7月14日読了

 神戸在住の「ロック漫筆家」が神戸各所の店や映画に関して書いたエッセイ集です。2015年の単行本も大学時代に読んでいましたが、文庫化で驚くのは、各エッセイに付記された「閉店」「移転」の文字の多さでした。

 文庫版あとがきで安田はコロナ禍と神戸の停滞が浮かび上がるこの状況を「言うまでもなく、地震で多くのものを失ったのだが、それと同じに、残ったものに対しての『スクラップ&ビルド』が見送られてきた(行政を主語とすれば、叶わなかった……となるのか)部分もあり(略)いよいよ『気づかれて』しまった感がある」と総括しています。神戸に生活する者の実感を的確に反映した文章だと思いました。

 この文庫版あとがきに呼応するように、神戸出身のミュージシャン、tofubeatsが文庫解説で示す神戸観も名文です。震災が「神戸の人々に『本当は神戸はこうなるはずだったんじゃないか』という、あり得た未来への気持ちを大なり小なり芽生えさせたのではないでしょうか」としつつ、それぞれの人々の中にあるイメージと現実との乖離=「スキマ」こそが神戸らしさだと見るのです。

 震災30年を目前に中心部再開発構想も動き出す中、こうした「スキマ」はどのように「気づかれ」、「埋められ」ようとしているか、そしてそれは「神戸らしさ」をどのように変えてしまうのかを考えてしまいます。


 紹介した本は、読書メーターの本棚「2024 読書この一年」にまとめています。


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