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自分を大切に愛するために、ちょっとだけやめたこと

「自分を大切にする」ということについて、最近ようやくできるようになったことのおぼえ書きです。



親切にしすぎるのをやめてみる

ここ数年で、自覚するようになったこと。
そして実行に移していること。

自分の心を大事にする。
自分を優先する。
自分をないがしろにしない。
自分自身を大切にして愛する。

そう、主語が全部「自分」にふりかかる、じぶんごとだ。

そのためにちょっとだけやめたこと。

親切にしすぎること。優しくしすぎること。
助けてあげようと動き過ぎること。
人の事を考えすぎること。

だから最近は、親切にし過ぎないようにしてるし、
敢えて優しくし過ぎないようになったし、
人を良く見てその人が必要とこちらに言ってきた時に助けるようにした。

こう書くとちょっと嫌な奴かもしれないけれど、今までが必要以上に親切にしようとしすぎてたんだなと考え直した。
それによく考えたら「助けて”あげる”」って、実におこがましい見方にも感じる。いやいや自分もそんなに余裕ないのにね。
ちょっとうざったいなって。

元来、人の役に立ちたいと思うタイプなのもあり、ありがたいことに昔からずっと「真面目で、優しくて、親切で、丁寧」と言われることが多くて、自分でもそんなふうに心がけてきた。
今の仕事に就く時、人のために繋がる仕事がしたくて、地域の人達の助けとなる医療を支えられる事に魅力を感じたからエントリーしたというのが志望動機だった。(業界なのか仕事関係者も「人のために」といった奉仕精神が根っこにある人達が、なんやかんや多い気がする)

なので人に対して誠実でありたいし、信頼の足る人になりたい。
自分が楽をして他の人が大変な思いをすることも、ずるいこともしたくはないと基本思っている。

もちろんそれでみそっかすで損なこともなくはなかったけれど、人の為に役立つように動いた結果といったこともあるので、物事がスムーズなら結果オーライと考えてしまう。

でもそれって、こう書くといやらしいけど私なりの善意を、喜んで受け取ってくれて反応してくれる人がいたのが前提だったから。
有難がられたいからしているわけではないけれど、幸い私が関わってきた人は大体が素直にそういうものを受け取って、分かってくれる人が多かったというのが前提だったように思う。

ここ数年の対人関係で、人が手伝ってくれたことを「当たり前」で感謝も謝罪もしない人と接点があった。
他人からそうしてもらって当たり前、人に要求はするけど自分は努力しない人。
その人を見てると、必要だと思う場での「ありがとう」「すみません」が何一つもない。
例えば、代わりにやってくれてる人に対して感謝もしないし、仕事を人に頼んだまんま手伝いもお礼も言わず、出来上がったら当たり前にスルーしたり。
自分のミスで他の人がフォローしてくれてるのに謝らないし返事もしないなど、ちょっとびっくりすることがたくさんあった。

そしてそれがその人にとっては「やってくれて当たり前、自分では何も気づいていない」という図式になってしまってるから余計だ。
そんな人に搾取されて、親切にした自分がバカを見たことが、何回も何回もあった。

なので、私が善意でやっていることがこの人にとっては「当たり前」に思われていて、結局アテにされて「え?私がやるって思われてる??」ってことが幾度もあってようやく気付いた。

そのおかげで、そんな人の前ではもういい人でいる必要なんかないや、とも思った。
もちろんそうすることで、私の良い部分がなくなっちゃった気もして難しいなと思う。自分でも嫌な奴かなぁ、なんて思ったりもする。
けどあのままだと「この人って便利〜」にされちゃうし、なんかニコニコして引き受けてる自分がバカみたいだなって思った途端に悲しくなってしまったのだから、やめて正解って思いたい。
この気持ちの切り替え時って、自分がいいように使われないために大事なことかもしれない。

大事にしてくれない人を、こちらも大事にする道理はないのだ。


嬉しいも、寂しいも、素直であること

パートナーからとても愛されている人が、物事がうまくいくコツについて「素直。嬉しいも、寂しいも、素直であること」と言っていた。

その考えはすごく衝撃だった。
嬉しいを素直に言うのは分かる。
寂しいも素直に言っていいの?って。

今ならば寂しいを素直に受け止めてくれない人はだめ、ということなんだと分かる。
悲しい気持ちも尊重してくれない人は、自分からも愛するに値しない。
そのぐらい、自分をもっと大切にしていい。

だけどいろんな面を許容してもらえるには、自分の方から先に大切にしてあげないといけない気もする。
先ほどの話の彼女も、彼女の方からあらゆる人や物事をちゃんと大切にしていて、思いやりと愛情が深く優しくしている人なのだ。
だから、大事にされるし、愛されるんだと思う。

何にもしないで大切にされるなんて、親子でさえも絶対的なことではないのに、それが赤の他人ならなおさら難しい。

その真理に気付いた時、「まずはじめに、私はもっと自分のことをちゃんと大事にしよう。愛そう。そうすれば大事だと思える人を大事にできるはずだから」と決めた。
自分のことを大切にできない人間が、他の人を大切にできるわけがないから。


人から良く見られたいから「いい人」になりたいわけじゃない

親切でありたい、いい人でありたい、っていうのは、人から良く見られたい・いい人に思われたいっていうのとは少し違う。

ただ、どうせ付き合うなら、誰だって気持ちの良い人と仲良くなりたい。
自分に無いものを妬んだり羨んだり、
いい大人なのに卑屈になって意地悪い態度したり、ひがみっぽい暗い人といると、心も削がれるし何より疲れる。

シンプルに考えて、誰だって優しくて、気持ちの良い人のそばにいたい。適切な心の距離をとれる人と一緒に時間を過ごしたい。
そしてそういう人の周りも、だいたい皆優しくて気持ちのいい人が集まっていることが多い。

だから私も「いい人になりたい」というより、心地が良い、気持ちがいい人が好きだから、そうありたいだけ。
とはいえ完璧じゃないので、そのさじ加減が難しくて頑張りすぎたり、空回りしてしまうこともあるけれど。
ただ、大人げないしょうもない態度や行動は、自分の品と信用価値を下げるだけだから、そんなつまらない事だけはしないように心がけたいところ。


「私を愛せるのは私だけ、生まれ変わるならまた私だね」って言えるように生きたい

私が等身大の自分自身のことを大事にしようと思ったのには、ある歌の存在がある。
Mrs. GREEN APPLEの「ケセラセラ」の曲だ。

「私を愛せるのは私だけ、生まれ変わるならまた私だね」の歌詞に出会った瞬間に、私の考え方に足らないものはこれだったな!と、目からうろこ。

自分の事をそんな風に思えないからこそ、「私を愛せるのは私だけ、生まれ変わるならまた私だね」って言えるように生きたいじゃん。って思うようになった。
当時その曲が主題歌となったドラマも大変勇気づけられたのもあって、「手放したって、なんとかなる!」という気持ちを教わった。

この歌詞って自分の事があまり好きじゃないからこそ、響くのかもしれないな~と感じる。
なかなか「自分の事が好き!」なんてならないもんね。本当はすごく必要な事なのに。
自分が強みも弱みも、どんな人間かも一番知っているのは自分だからこそ、でもそういうこともひっくるめて、この歌詞はすごくいいなぁと思える。

真面目に生きていれば落ち込むなんて当たり前のことだから、悔いのないように生きるのを楽しまないと損だなとようやく思えてきた。
そして、私は自分にもっと自信を持ちたいし、大事にしてあげたい。

自分のことを大事にしてあげれるのは自分だけという、当たり前のことに気付くなんて、こんなに時間がかかるとは。
だけど、それに気づくために今までがあって良かった。
無駄な事なんてやっぱり一つもないな。

「生まれ変わるならまた私だね」っていい言葉。
そんな風に思いたいし、思えるような自分になっていきたい。


人に助けてもらいながら自分の角をまるくする

自分に落ち込むから、自己研鑽のために周りから学ばせてもらっている気持ち。
それってきっと、もっと自分の中身をいいものにしていきたいっていう表れだなとも思う。
まだまだ人として懐の温かい人になっていきたい。

一番実感しているのは、やっぱり誠実な態度を心がけてきて本当に良かったってことだ。
自分が一番どうにもならなかった時や苦しかった時に、味方になってくれる人がいた。
意地の悪い事をする人より、私の今までの信用のほうをとって信じてくれる人がいた。

時には「自分、損だな。ばかみたい」って拗ねそうなときもあったけど、コツコツ誠実にやってきて良かったって思う。
もちろん、利用されない程度に優しくするって心がけはそのまんまで。

色んな人に助けられて、自分の角がだんだんまるくなってく。

常日頃、自分から良いところを見つけて好きになっていかないと、何事も楽しくないもんね。
大好きな人からも日頃「そういうところが好き」って言ってもらえるので、そういう自分も忘れずに、自分の気持ちも、自分にとって大事な人達も、ちゃんと大切にしていきたい。


そんなわけでここ数年の対人関係で感じたことのおぼえ書き。

大好きなものを今日も「大好き」と素直に言うことができるのって気持ちがいいね。

夏に出かけた新潟の海


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