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春に ~谷川俊太郎様によせて~

谷川俊太郎さんが亡くなられた。

そのニュースを知り、不意に私の心にちいさな針を感じた。
その痛みは、チクン、なんてものじゃなくて、ぷすん、でもない。
静かにスッと入り込んできたような感覚。
小さくても細く鋭いような痛みは、意外にも奥へ刺さった気がした。


谷川俊太郎さんの詩の中でいっとう好きなのは「春に」だ。

中学3年生の卒業式での合唱曲だった。
当時はちょっとだけ反抗期で、世の中のことを斜めに見てしまっていた。まるで大人の事をもう分かったような気さえしていて、クサクサしていた。
今思うとどこからどう見てもただの子供なのに、本人の自覚は「もう大人だもん」といった感じなのだから実に若気の至りだ。

そんな時に出会ったのがこの詩だった。

静かなピアノからはじまるメロディはどんどん音が豊かに広がっていき、繊細さと壮大さが共存している旋律と歌詞の世界観が、あまりにも似合いすぎて「なんて綺麗な歌なんだろう」と思った。

葛藤やくすぶり、苛立ちや、まだ何者でもない自身への虚無と焦燥。だけどどこか期待もしていたくて、すみっこにある小さなキラキラした感情は大事にしたほうがいいものってどこかで分かっていただけに、完全に拗ねることもできなくて。

今まで言葉にできなかった自分の中のモヤモヤが谷川さんの詩の中いっぱいに描かれていた。

これを書いた人は大人なのに、どうしてこんなに瑞々しいのだろう?
なんで「今」の自分が、ここに表されているのだろう?

あまりの純度の高さに、この人の言葉はなんてきれいなのだろうと驚いた。


改めて谷川俊太郎さんについて調べると、あれもこれも翻訳しているものがたくさんある。とくに有名なのは「スイミー」「スヌーピー全集」だ。
その他に無意識に読んでいたものもいくつかあって、言葉選びが可愛いな、リズムが良いなと思って訳者や作者を見ると「たにかわしゅんたろう」だったりしてそのたびにやっぱり素敵だなぁと思ってなぜか嬉しくなった。

そして色んな詩を読んだりするうちに、どうしてこんなに純粋なのかと考えた。
何となくだけど子どもの言葉遊びによく似ているなと思った。

小さい頃、一人で学校から帰ってきた時や、友達の家に一人で向かうときなど、よく何かを口ずさみながら歩いていた。
でたらめな言葉はもちろん、音程もちょっとでたらめで、ときには得意げに、かと思えば調子っぱずれにしたり、自分でもよく分かっていないけれど「その時」に感じたまんまによく歌っていた。
ふんふんと誤魔化すときもあったり、ちょっと何かのお芝居のセリフなんかも真似してみたり。

そういう「何気ない」かんじで、その時に発したい何かを歌ったり表現していたように思う。
もちろん恥ずかしいから自分にだけしか聴こえないように。

何だかその時に表現していた何かに、谷川さんの言葉たちは似ている気がする。

だから谷川さんの言葉を読むとまるでその時に戻ったみたいになるのだ。
ちょっとウキウキするような、でもほんのり淋しくてしんみりするような、色んな未熟な感情がないまぜになって、ぐるぐるしながら風のように自分の心を駆け巡っていく。
まるで「子どものときを忘れさせてなんかあげないぞ」って言われてるみたいに。

もう大人なのに、言葉一つで子供の頃の空気にタイムトリップできるなんて、なんて面白いことなんだろうか。



朝の光を受けた青々とした緑に、葉っぱの上の雫が一筋落ちるようだった。 

友達と遊んだ帰り道に見た夕暮れがやけに綺麗なのにもの悲しくて、この世にたった一人ぽっちみたいな気持ちになってちょっと怖くなった。何もないのになんだか泣き出したくなるような「黄昏」という感覚を子供ながらに知った。

果ての無い砂漠の夜を月の青い光が静かに照らす風景や、
白い雲がみずいろの空にぷかぷかと気持ちよさそうに浮かぶ暖かな春の昼間だったり、
読んでいると色んな情景や身近なものや記憶が目に見えるよう。

谷川さんの言葉のイメージは私の中ではそんな感じだった。

とくに、あの時の自分が出会った「春に」の詩は一生忘れることはないと思う。
まだまだ青い自分が恥ずかしくて嫌でかっこ悪くてもどかしくてたまらなかったのが、
恥ずかしくても嫌でもかっこ悪くてももどかしくても「しょうがない。それが今のわたしなんだ」と思えることができたから。
もどかしくたっていいんだ。
青いまんまなのが、今の自分でしかないのだから。

そんな詩を歌い終えて新しい制服に身を包んだら、前よりちょっとだけ気持ちが落ち着いた自分がいた。

高校生になっても、卒業して大人になってしまっても、あの歌はいつでも私の中に残っている。


ふいに、あなたのことばが恋しくなります。
懐かしくなります。

だから、言葉があってよかった。
あなたが沢山のものを残してくれたから、それは永遠になれる。

言葉なんか流れていくものだし、日々新しくなるものだ。
残物にいつまでもいつまでもこだわるなんて、ナンセンスと言われてしまうかもしれないけれど、
それでも谷川さんの言葉に関しては「偏愛」でいたい自分がいます。


いつかは無くなる日がくると分かっていましたが、やっぱりさみしいです。

だけどさみしいものも、うれしいものも、
ざらざらとしたものも、その中に少しあるきらめく小粒も、
ぜんぶ食べて噛んで舌で味わって飲み込んでしまおうかと思います。
そうしていれば、いつしかちゃんと自分の心の栄養になっていると思うから。


そう思えるくらい、谷川さんのことばたちは素敵です。
ずっと。