会津と明治維新雑記
先日会津地方を旅行して、幕末会津藩のことに思いを寄せたので少し書いて見ます。
会津は安土桃山時代は豊臣政権下、江戸の徳川家の抑えのため、蒲生氏郷・上杉景勝と重鎮が高禄で置かれた。江戸期も3代将軍家光の弟である保科正之が会津松平氏として置かれ、重要親藩大名として伊達家の抑えとされた東北の交通の要所であった。
しかしこの会津藩は、戊辰戦争時は逆に賊軍として攻撃され、生き残った藩士は斗南という下北半島の僻地へ追いやられ悲惨な末路を辿ることになる。
会津若松で乗ったタクシーの運転手さんは、この時の相手方のことを “西軍”と言っておられた。会津の方にとって敵は ”官軍“ではないんですね。
今でも会津は薩摩に恨みを持っているのか聞いてみたい気にもなった。
町の観光名所では、今も綾瀬はるかさん主演の「八重の桜」のポスターが貼ってあるところがあり、最近亡くなられた西田敏行さんは、大河ドラマ「翔ぶが如く」で西郷隆盛を演じ、「八重の桜」では会津藩の家老西郷頼母を演じていたことを思い出しました。ドラマ当時、会津の方はどう感じていたんでしょうか?
会津藩が最後まで政府軍に抵抗したため、会津若松城は石垣を残して取り壊され、その跡地は競輪場となっていた時代もあったという。競輪場の良し悪しはともかくとして藩のあった頃をしのぶ人(そんな方はいなかったのかもしれませんが)の目にその姿はどう映っていたのでしょう。
その後の市長の音頭取りで何とか天守閣は再建され、城址公園として整備され今に至るようです。
そう言えば福島県は全国でも人口当たりの医師数が少ない方に数えられる県です。これは戊辰戦争で会津藩が壊滅した際、藩校組織も壊滅し会津に国立大学が出来ず、戦後福島に新制大学が出来た際も医学部は出来ず、県立の女子医専が医大に昇格してようやく医学部を確保という歴史が影響しているかもしれません。戊辰戦争で勝った藩の藩校組織は残り大学の元になったようで、そういった県は早くから医学部があったのではという説もあります。福島の医師不足の遠因は戊辰戦争かもしれません。