なぜ介護の仕事がキライになってしまったのか~23年間で感じてきたこと
2021年の6月。介護士の仕事を辞めました。
いつかは退職の経緯について書くつもりでしたが…辞め方があまり善くなかったこともあり、辛かったことをフラッシュバックしてしまいなかなか書き出せなかったのです。
もちろん利用者さんたちが嫌いになったわけではありません。
ただ23年同じ業界にいるうちに、この仕事を志した時とは業界を取り巻く環境が変わってしまったと感じます。
退職から1年以上経ってやっと、書く勇気が持てました。私が23年間感じてきたことを、できるだけありのままに伝えます。
介護保険黎明期
この仕事に就こうと思ったキッカケは、保険会社で営業していたときの出逢いからでした。
その方は病院のリハビリの先生で、お伺いした時ちょうどご高齢の女性の歩行リハビリをされている最中。全身鏡の前でふと立ち止まった女性の髪を先生が何気なく撫で上げたのを見たとき、ビビッと来たのです。
私、こういう仕事がしたい!
帰宅してすぐ、どうしたらリハビリの仕事に就けるか調べました。
けれど学校に3年通わないといけないらしい…無理。息子3歳だし。
諦めきれず更に調べたところ、介護士なら働きながら資格が取れる。よし!
すぐさま福祉人材センターに登録し、夜勤のない仕事を見つけ応募します。
時は1998年、介護保険制度が施行される2年前。介護施設はまだ措置入所の時代でした。
私が勤めたのは当時まだ珍しかったデイサービス。
オープンから勤めて初日の利用者さんはたったの3人、それから増えて20人近く来園されると「今日は多いね」と言っていた記憶があります。
利用者さんからは友達と楽しく過ごせてご飯も頂けて、しかも送迎までしてくれるなんて、ありがたい。
と、それだけで感謝されてしまう好い時代でした(笑)
人権関連法案が現場に及ぼした影響
その後2001年。離婚を機に夜勤ありフルタイムの職に転職します。
(子供の養育権は父親に取られてしまいました。引き取るためにフルタイムで就いたのですが…)
前のデイサービスとは打って変わって利用者さんの数も多く、とくに認知症の方による転倒事故や車いす・ベッドからの転落事故が日常茶飯事に。
(この頃に手を焼いた利用者さんは今でもフルネームで覚えています 笑)
はじめの内こそ「利用者さんにも転ぶ自由がある」などと上司にも言ってもらえたのですが、時とともに次第に「事故の責任は施設側」という認識が強まってきます。
そして2006年(平成18年)4月、通称高齢者虐待防止法の施行。それまで曖昧だった身体拘束の定義と基準が明文化されました。
これを境に…正直に感じたままを話します…身体拘束が出来なくなったことで、認知症介護の現場は身動きの取れない八方ふさがりになった実感があります。
23年で利用者さんの「権利意識」が爆上がり
時とともに変わったのは制度だけではありませんでした。利用者さんや家族の意識も23年の間に変わってきたと感じます。
何でも「ありがたい」と言ってくれる世代、太平洋戦争と食うや食わずの時代を成人として生きてきた世代と入れ替わりに、「権利意識」が強いクレーマー気質の利用者が増えてきたように思います。
年々仕事をしていくうちに、自分がなにか踏みにじられたような思いに陥ることが、たびたび起こるようになります。
私はこんなにイヤな思いを耐えているのに。利用者自身の不満はすべて、私のせい。事故などが起こったときもみんな、私のせい。
「私」はいったいどこにいるんだ…。
「上から目線」の利用者の中には、長年勤めた会社がバブル崩壊でうまく生き延びた結果、いい退職金と年金を受け取っている人も多い。
そんなリッチ層に、現役で所得の劣る私たちがなぜ尽くさなければならない?と感情で赦せない部分もありました。
太平洋戦争を生き抜いてきた世代に対しては掛け値なしに敬うことができましたが、それ以降に対しては…。
これって想像力の欠如でしょうかね。それとも「私だって大卒なのに」という要らぬプライドのせいでしょうか。
夜勤できないって、ツライ
それでも介護士を辞めなかったのは「介護なら食いっぱぐれない」という楽観論と、他の仕事に就くことを諦めていたことと。
それより何より、交代制の勤務体系が趣味との親和性が高かったのが大きな理由でした。
以前にも書きましたが、実際、夜勤明けで遠征するときが最高に「介護士でよかった」と思える瞬間だったのです。
休暇の実数は他の自転車友達より圧倒的に少なかったのですが、「夜勤の組み合わせトリック」で機動力を発揮、遠征に関してはだいぶホワイトカラー陣と互角に闘えていたという自負があります。
(夜勤の組み合わせトリックとは、遠征の前後を夜勤=移動日とし、間の一日を丸々活動するという単純なカラクリです)
…ちなみに夜勤明けで陸路移動した最長記録はここ↑↑
そんな風に夜勤を完全に当てにしていたので、夜勤を外されたときには絶望しかありませんでした。
それでもまだ入所部門のときは、休み前を無理やり早番にしてもらうなど苦肉の策を講じられたからまだよかった。
それでも、夜勤に入れてもらえないストレスからつい、堪えきれず利用者に暴言を吐いてしまいます。
結果、日勤onlyのうえ拘束時間の長いデイケアに配転という、趣味人間としては最悪の結末に。
コロナ禍で友人は皆リモワ…疎外感MAX
そして2020年4月。
新型コロナ大流行と緊急事態宣言発令で、大好きな自転車の大会が悉く中止。ストレス発散ができないまま仕事だけが煩雑になっていきます。
そんなときふと、友達の殆んどがリモートワークであることに気付いてしまいました。SNSをやっていると皆の動向が手に取るようにわかるのです。
しかも宣言解除とともに友人たちは次々と旅行や遠征に出掛けていき…
私はといえば、夜勤がなく半日早退も許されず、その上「介護士たるもの感染防止のため行動自粛せよ」という不文律に縛られどこにも行けず。
私はなんて報われない仕事を選んでしまったんだろう…。
この頃から自分の仕事を卑下し始め、せっかく7年続けてきた断酒も途絶えてしまいました。浴びるように飲む生活に逆戻りです。
メンタルからの過失で利用者に怪我…引責
以前はそれほど苦手でなかったある同僚のことを、当時の精神状態が悪かったせいか次第に怖れるようになります。
その人はよりによって感染防止委員。あるとき休みで山歩きに行った職員のことを強く糾弾するのを聞いてしまい、一層ビビってしまいました。
私が事件を起こしてしまったのは、その同僚とふたりで入浴介助をしなければならなかったときのこと。
緊張のあまり、私は利用者を受傷させたことに気が付かなかったのです。
日数を置いて事件は発覚。それも利用者家族が激怒して施設に電話してくるという最悪のケースに発展していました。
魔の悪いことにちょうど私はその日が休みで、千葉県の自宅から福島県白河市まで自転車で移動中のため不在。
…そういえば虫が知らせたのか? その日何でもないところで一度コケたっけ…
次に出勤したら、その日は一切の身体介助を外されて雑用しかやらされず。
そしてたまたま目についたメモに、部署中の職員が私の歴代の「罪状」を書き込んでいるのを見つけてしまい…
「ここに私の居場所はない」と悟りました。
夕方、施設のトップに呼ばれ詰問を受ける。そして後日、医師の診断書を提出して最終的な御沙汰が下ったとき、不思議な感情が湧きおこります。
「…もうここに来なくていいんだ。」
最悪のシチュエーションのはずなのに、そう思った瞬間心がふっと軽くなり「開放された」と感じたのです。そして思わず顔がほころびました。
私、介護の仕事が本当は好きではなかったのかもしれない。
介護の仕事の辞め方が最低な形で、就業中の心構えやモチベーションも「成人君主の福祉職」とは程遠い体たらく。
周囲からの叱責・失望を怖れてなかなか正直に書く勇気が持てなかったのです。
当初私の「黒歴史」シリーズとして、今回はよほど興味を持った人しか読めないように有料設定にしようかと考えていました。ただこれまでの記事が、この記事があってはじめて辻褄が合うかもしれないとも思い、無料のままに留めました。
じつは「有料」にでもしないと語れないような黒歴史はまだまだ残っていますので、そちらはまた追々。
※記事の終わりに「パンドラの箱に残った希望」を期待されて読み始めた方には、ごめんなさい。
今回は毒吐き切って終わりです(笑)