哲学対話とわたし
わたしは、哲学対話がこわい。
今週、沖縄で3日間、哲学対話をした。
夏休みになってからは一人でもくもくと勉強・作業することが多かったから、とても久しぶりの哲学対話だった。
いつも哲学対話について書くと、いろんな人から「哲学対話をやってほしい」とか「このイベントに来てほしい」という言葉をもらう。でもその度にわたしは、哲学対話に完全にはハッピーになれない自分にもやもやを感じたり、対話後のネガティブな気持ちに気づいてどうして自分はこうなんだろうと落ち込んだりしてしまう。
この3日間を通して改めて、わたしは本当に哲学対話が苦手だし、怖いし、しんどいんだな、ということに気づいた。
だから今日は、わたしのそういうちょっとマイナスな気持ち、わたしの哲学対話とうまく関われない部分について書いてみたいと思う。これは、わたしのそういう状態を誰かに伝えたいという気持ちであり、また、過剰な期待や理想を押し付けない・抱かせないことで、わたしが哲学対話をありのままにできるだけ大切にするための試みでもある。
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哲学対話ってなに?という人はまずこちらから。
わたしは、哲学対話がこわい。
以前に、この記事の中でこんなことを書いた。
これをもう少し具体的に説明しようとしたこともある。
わたしのちょっぴり臆病な気持ちや心の奥底の弱い部分が、わたしの哲学を支えているということを誰かにわかってもらえたらいいな、という気持ちで書いたものです。
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例えば、わたしは大人との対話がこわい。
自分より年上の人から「ありがたいお話」をいただくとき、みんなが対等で・セーフティーで・探求の共同体の一員であるという場が壊されている、と感じる。
「子どもを産んだらわかるよ」とか「大人になったらわかるよ」とか言われてしまったとき、この人はわたしの意見を聞く気がないんだと思わされて悲しいし、ほんとうのことを一生懸命に探しているわたしが踏みにじられているように感じて苦しい。
大人と対話しているとき、わたしはとても広くて暗いところにポーンと放り出されてしまい、ひとりぼっちで寂しくて心細くてたまらない感覚になることがある。
対話の道中でよく、過去の経験や今まで信じてきたこと、当たり前だと思っていたことがガラガラと崩れ去る瞬間があって、それがみんなとはぐれてしまう感覚にすごくよく似ている。
わたしは、大人より子どもたちの対話の方が好きで、それは彼らがいつもわたしと「一緒に迷子になってくれる」感覚があるからだと思う。不安や孤独を感じるとき、ふと、右腕にくっついているあったかい体温や、身を乗り出して膝に乗り上げてくる小さな手に気づいて、わたしはひとりぼっちじゃないんだな、と思える。
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例えば、わたしはだれかに自分の「ほんとう」を話すのがこわい。
わたしにとって、ほんとうのこと、つまり自分のほんとうに感じていることや考えてきたことを話すのは、自分のやわらかい部分を無防備に差し出している感覚であり、だれかの評価の前に丸裸になる感覚である。
ナウシカが王蟲の群れを前にたった一人で両手を広げて立つシーン、これからくるものに必ず傷つけられるとわかっていてもなお自分を示すこと、そこで傷つけないことはほんとうに奇跡のような確率でしかない、という感じで。
生まれてから今まで、わたしが経験したこと・感じたこと・学んだこと・考えたことを材料にして、長い時間をかけて消化してきたことが、わたしの「ほんとう」を作り上げていて、だからこそそれを誰かに完璧に受け取ってもらえる・わかってもらえることなんてあり得ないとわかっているのだけど、
それでもなお受け取ってほしい・わかってほしいと思ってしまうし、反対に、簡単には受け取らないでほしい・わかられてたまるかとも思ってしまう。
話してわかってもらえないことも怖いし、わかられてしまうことも怖い。
わたしの臆病で、いちばん弱い部分であり、それを乗り越えるためにエネルギーをひどく消耗する部分でもあります。いつも、話そうとするたびに息が詰まってしまって、対話が終わったときには抜け殻のようになってしまう。
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例えば、わたしは哲学対話の「まとめ」がこわい。
たまに、哲学対話の終わりに結論を出そうとする人や、感想と称してみんなの対話をまとめてしまう人がいる。「このグループではこういう話をして、こういうふうに話が進みました」と言われたとき、対話の中でわたしの言えなかった言葉や、わたしが大切だと感じた話が取りこぼされ、無かったことにされてしまったような気がして、それが大嫌い。わたしだけじゃなく、それぞれの感じていたものがどんどん削られて、どこかへいってしまうのがとても悲しい。
その人が感じた・考えたことと、その場で存在していたもの・生まれていたことはぴったりと重なっているわけではなくて、それをわたしが痛いほどに知っているからこそ、自分やみんながまとめられていく瞬間がほんとうに苦しい。
誰かがどれだけ一生懸命に掬い取ろうとしてもそこから飛び出していく部分があるということ、それが深くて広いということなんじゃないのかなあと思っています。そういう対話の豊さとか深さとかを、無理だとわかっていてもどうにかそのままで留めておきたい、といつも願ってしまう。
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哲学対話がつくろうとしている場、安全で、みんなの意見に価値があって、よく聞いて考える場。
わたしは臆病で、弱くて、そういう場があることを簡単には信じられない。
でも、だからこそ、そういう場がほんとうにあるんだろうか、わたしにそれが作れるだろうか、と祈るような気持ちでずっと哲学対話に関わっています。
こわいからこそ、こわい人のためにわたしが何ができるだろうか、そういう人が生きていくにはどうしたらいいだろうか、哲学対話に希望はあるだろうかと、わたしが考えることに意味があるのだと信じています。
こわさ、しんどさ、苦しさに気づくと同時に、まだまだ諦めたくないと思わされる沖縄での3日間でした。そういう全部を抱きしめて哲学対話と向き合っていきたいし、そういう部分をなかったことにしないための今日のnoteです。
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読書案内
過去に哲学対話について書いたnoteがいくつかあるので貼っておきます。