エッセイ #17| 余裕のある人になる
マクドナルドには中毒性がある。
肉の塩分、濃いめのケチャップ、口に含んで5回くらい咀嚼すれば飲み込めてしまう柔らかさ。文字に起こすだけで反射的に唾液で口が満たされる。
大学生の時は、サークル終わりに"アフター"と称して毎週毎週マックに行っていたが、それから10年近くが経ち、30歳を目前に控えた僕にとって、毎週マクドナルドに通うということは寿命を縮めることとほとんど同義である。
なので、普段からおめおめとマック行くわけにはいかないのであるが、頑張った日やチートデイ的な日はマックに行ってもいいことにしている。
そして結構ハードに仕事をしたその日、僕は気づけば近所のマックの前に立っていた。
自動ドアの外にいても分かるくらい、店の中はガヤガヤと色んな音がしている。
いざ出陣!と思って右足を踏み出したのだが、自動ドアがびくともしない。
「ん?」
2.3歩下がって気を取り直す。まだ慌てるような時間じゃない。
気を取り直して再び前に進む。しかし、やはり自動ドアは開かない。思わず上を見上げて自動ドアが稼働しているかどうか確認していると、突然自動ドアが開いた。
ふと目の前を見ると、20代くらいの男性が立っていた。自動ドアの前で軽快なステップを踏んでいるまぬけな僕を見て駆け寄ってきてくれたのだった。思わず僕は
「あっ、すみません。」
と言って店の中に入った。1歩踏み出す。そして2歩目を踏み出したときに、3年前に読んだ本の記憶が呼び戻される。
とあるデザイナーさんの本だったと思うのだが、"日本人は謝る場面じゃないのによくすみませんと言う、それはおかしい"という著者の見解が書かれており、確かになと思った僕は、それ以降エレベーターで開ボタンを押す係になってくれた人に対して「すみません」じゃなくて「ありがとうございます」と言うようになった。その他のシーンでも、反射的に「すみません」が出てしまった場合は、そのあとに続けて「ありがとうございます」と言うようにしている。
マックで、若い男性に自動ドアを開けてもらい、
「あっ、すみません。」
そう言って1歩、2歩、足を進めてから上記のことを思い出し、足を止めて振り返る。男性にまた声をかけた。
「あの、ありがとうございます。」
まあまあの笑顔で言った。
自動ドアで困った僕、よかれと思って開けてくれた男性、この平和な世界がなんだか嬉しかったからだ。気持ちのよいコミュニケーションがしたくなったのだ。さぁどうだ、男性よ。
するとなんと、若い男性は怪訝な顔でこちらを見ているではないか。
えぇっ。
なんで、なんでよ!
予想だにしないリアクションだったため僕も少したじろいでしまい、そのまま店の奥へ足を進めた。
後から振り返ると、
「何回言うとんねんこいつ。」
ということだったのだろう。彼からすると。
今になってみると"まあまあたしかに、あれはおれが変だったな、タイミングとかおかしいもんな"などと腹落ちするのであるが、皆さん、ではこんなのはどうだろうか。
先日東京駅を歩いていた時のことだ。前から40代くらいの母親と、高校生くらいの女の子が歩いてきた。母親の方のスマホからライトが放たれており、どうやらそれに気づいていなかった様子だったため、僕は前からやってきた2人に近づき、手のひらを上に向けて下からスッと差し出し、スマホの方に向けた。
「ライトついてますよ(スマホのことですよ、と分かるように手のひらで指しながら)。」
すると母親の方は怪訝な顔で僕の方を見て、自分のスマホを確認し、そして僕のことはガン無視で再び歩き出したのである。
えっ!なんか思ってたのと違う!
教えてあげて損した感じ!なにこれ!
後から振り返り、いきなり知らない男性から声かけられたら怖かったりはするかぁ…と少し反省をしたわけであるが、良かれと思って話した時にドン引きされるとこちらも少しだけ喰らうことがある。
しかし、マックの男性しかり、スマホの女性しかり、いきなり話しかけられるとドライな感じになってしまうのも非常に分かるのである。
だが、この"突然始まるコミュニケーション"に救われることもまた一方で多いのではないかと思う。
仕事で"疲れたな"とか"しんどいな"と思うことはほとんどない性格なのだが、数字を追いかける仕事であるため、その日は数字に対して思うことがあり、気分転換で近所の銭湯に行った。
小さい街の銭湯ではあるが、サウナもあって毎日日替わりでお湯が変わり、お風呂には若手デザイナーのコラムも定期的に貼ってある。この街に引っ越してきた時に初めて会話した相手がここの店主だった。大好きな銭湯だ。
お風呂に入ってサウナ室にいき、そのあと水風呂に入った。ここの水風呂は蛇口があり、蛇口を捻ると上から水が落ちてくる。水風呂から出る時はこの蛇口を締めて水を止めるのがこの銭湯のルールである。
水風呂には先に常連のおじいちゃんが入っていた。僕もザッパーンと水風呂に入って、気持ちがいいなあと思っていると、おじいちゃんが水風呂から出て行き僕一人になった。頃合いを見て水風呂を出ると同時に、蛇口を捻って水を止める。
体を拭いて水風呂の隣にあるベンチに座っていると、
「止めてくれたかいぁ?」
閉じていた目を開けると、中肉中背のおじいちゃんがこちらを見て立っており、どうやら僕に話しかけているようだった。
「あっ、はい!水ですか?とめました!」
咄嗟に僕も返事をすると、
「あ、そう!あいやと(ありがと)!」
とおじいちゃんが返事をした。
ベンチに座っていた僕はそのまま目を開けて天井を見つめる。
柄にもなく仕事のことで少し落ち込んでおり、オンラインではあるが会社の同僚と話したりしたものの気分は特に晴れず、ふらっと銭湯に行った。サウナ室でもあれやこれやと考え、そのまま水風呂に入る。ベンチで座っていると知らないおじいちゃんに突然話しかけられてありがとうと言われた。
一気に心が晴れた。
おじいちゃんとの会話は5秒くらいのことだったが、サウナ後の脳内麻薬放出も相まってとてつもない多幸感に見舞われた。
何気なく訪れた会話に、僕たちは救われることがあるのだ。これだから初見の人とのコミュニケーションはやめられないのだ。
松坂桃李主演の『空白』という映画を1年前に見た。(少しネタバレをします)。スーパーの店長として働いていた松坂桃李が、とある事件を引き金に同僚から過剰に優しくされるようになり、それが辛くなってしまう。色々あってスーパーの店長を辞めてしまい、スーパーを辞めた松坂桃李はひっそりと工事現場で働くのだが、工事現場の若い兄ちゃんに、「おたくのスーパーの焼き鳥弁当が好きで母ちゃんと一緒によく食べてました。またどっかで弁当屋でもやってくれたら嬉しいっす。」と言われた松坂桃李が、感極まってその場で泣き崩れてしまうというシーンがある。
何気ない優しさが誰かの心を打つことがあるのだ。
僕はよく"工事現場の兄ちゃん"側になってしまうことが多いのだが、僕が遭遇したマックの男性もスマホの女性も泣き崩れはしなかった。当然である。
優しくしたあとの相手のリアクションについて、優しくする側は期待をしてはいけないのだが、相手のリアクションに期待をせずに生きていくのもまた残念だなと思う。
泣き崩れたり、過剰に感謝されることまで求めずとも、繋がりを感じることは求めてもいいのではないだろうか。そして、優しくした相手からぶっきらぼうな反応をされた場合に、怒ったり残念がらないような耐性を持つ必要も、一方である。そしてその手段は今のところ一つだけだ。
それは自分に余裕がある状態でいることである。
何かを頑張っていたり、夢中になっていたり、楽しいことや幸せなことを実感できている状態でいることが大事なのだなと思う。心が満ちていると、ぶっきらぼうな相手に直面した場合でも、"この人は余裕がないのかも"と言動の理由を分解でき、怒りや残念さに結びつくことを極限まで減らすことができる。
誠実で優しくあることは素敵なことだし、自分の人生を楽しんでいて豊かな心でいることは、相手の状況に依存することもなく、やはり満たされた生活が待っている。
そんなことを考えると、自分も色んなことにチャレンジして興味のあることに取り組もうと思うし、魅力的な人であろうと思うのであった。
こんな感じで"優しさ"についてのある種答えが見つかったわけだが、先日実家の福井県に帰省をした際に新幹線に乗った。
新幹線の通路は狭い。
僕はトイレに行こうと席を立ったのだが、通路を歩いていると途中で前方のドアが開き、男性が入ってきた。
近くで見るとこの男性はずいぶんと身体も大きい。すれ違いができず、このままではぶつかってしまうため、僕は通路を譲るようにサッと席の方に身体を移動させ、“どうぞ行ってください!"という顔で男性を見て、少し頭を下げた。
すると男性はペースを乱さずこちらに歩いてきて、礼も言わず頭も下げず、当たり前かのように何食わぬ顔でそのままスタスタと通路を歩いていった。
“ ぶちこ○すぞテメェェェェッッッッ!!!!"
心の中で大声で怒鳴り散らした。
僕にはまだまだ余裕がない。
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