【短編小説】 あなたへ
拝啓
あなたはどんな所にいて、今何をしているのかしら。
そうね、きっと寂しくはなさそうね。そちらにはあなたのお友達がいらっしゃるし、お兄さんもお義父さんもお義母さんもいらっしゃるものね。そうだ、私の両親もいるわね。きっと、また父に将棋の相手をさせられているのでしょう?父が腕を組みながら眉間に皺を寄せて「まいったなぁ」と言っているのを、いつも母と笑って見ていたのを思い出すわ。あなたも相当気を使っていたでしょうね。あんな風にそちらでも変わらず、みんなと過ごしているのでしょうか。いったいどんなお話をしているのかしら。私がそちらにいった時には、ぜひ教えてくださいね。
私はね、最近ご近所さん達とお茶会をするようになったのよ。驚くでしょう?あんなに出不精だった私が、週に一度は三軒隣の竹原さんのお宅にお邪魔しているのよ。竹原さんも旦那さんを先に亡くしているし、娘さんたちとは同居していないでしょ。だから近所のみんなで集まってね、気兼ねなくずーっとおしゃべりしているのよ。あなたはよくそんなに話す内容があるね、なんて言いそうだけど、夫の悪口と不健康自慢は尽きることがないのよ。ある人なんて、四十年も前の旦那さんの一言を引っ張りだして文句言うんだもの。女の執念は深いわね、ってみんなで笑うの。あなたも身に覚えがあるでしょう?こういうバツの悪い話の時のあなたは、遠くを見て、私とは一切目も合わせないんだから。わかっていますからね。
私もいつでもそちらにいってもいいように、少しずつ片付けをし始めました。こういうのを終活って言うんですって。あなたはきっと、またおかしな言葉を使って、なんて言うんでしょうね。でも、その終活がなかなか進みません。
ほら、あなたは興味のある事はなんでもしてみないと気が済まない人だったし、必ず私も付き合わされたでしょう。だから何から何まで二人分でいっぱいで大変よ。そうだ、釣りの道具はもう処分しちゃいましたよ。あれだけ揃えて五回行きました?あなたはもっと行ってるよ。なんて言うんでしょうけど、本当にそんなものよ。
これ以外にもね、捨てられない物は沢山あるんです。
あの赤い差し色の入った壺。あれをあなたが買って帰ってきたとき、値段聞いて私もう腹が立って腹が立って。あれで私たち一週間口をきかなかったのを覚えていますか?あなたはこれ見よがしに大事に手入れしちゃって。あなたが死んだら売り飛ばしてやる!なんて思っていたけれど、いざやろうとするとできないものですね。それに、あの壺を手入れしていると、あなたと大喧嘩した時のあのムカムカした気持ちがもう一度湧き上がってきて、寂しさを紛らわせることができるのです。それにね、あなたの声が聞こえてくることもあるのよ。「大事にしてくれよ」「その赤がいいんだよ、君もだんだん気に入ってきただろう」なんて。少しだけ、あなたとおしゃべりできているような、そんな気がするの。
あなたの声が聞こえることは他にもあってね。
ご飯を炊いた時、釜を開けると聴こえてくるのが「あー、もうちょっと柔らかい方が僕は好きだな」。
お風呂を沸かしている時は「もう少し熱い方が僕はいいな」。
テレビを見ている時には「この男は好かん」。
しんとして、人の温かさが薄れてしまった我が家に、私はすっかり慣れてしまったはずなのに。やっぱりあなたの声が聞こえると、残されたんだと身にしみます。
私の大切な人達は、みんなそちらへいってしまいました。あなたは、天国という所はきっと朝のやわらかい陽の光が、いつでも降り注いでいるような所で、望めばなんでも手に入ってしまう退屈な場所だろうと言っていたくせに、一人であっという間にいってしまうんだもの。本当に身勝手な人。
私は嘆いているわけじゃないのよ、だから安心して。面倒くさいことを全部私に押し付けて、先にいってしまったことに意地悪を言っているだけ。ほら、またプイってそっぽ向いているでしょう。わかっていますからね。
今年私は、あなたの年齢を越すでしょう。でもこの様子だと、あなたに会えるのはまだまだ先になりそうです。あなたに会える時にはヨボヨボになっていそうだわ。だから会えた時には、けっして私に余計なことを言わないように。
私は一人でもなんとかやっています。だからあなたも、そちらで好きに楽しく過ごしてくださいね。
史子
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