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【節約生活#720】節約と自分の美学

 趣味で節約生活をはじめてみた。
 肉体的、精神的、社会的な健康を目指しながら節約をするというルールで挑戦中。
(2024,6.15更新 それまでは「健康で文化的な生活をしながら節約をする」というルール)

節約は美学に反するか

 美学というのは学問のようでもあるけれども、美に関する信念を指すこともある。

 言われてみれば、「自分の美学」とは自分の持っている美しさの信念のことである。自分の美学に反する行動や様式を目にすると、カッコ悪い、という感想になる。

 節約を「カッコ悪い」とする考え方がある。
 いわゆる貧乏くさいというやつである。ケチということかもしれない。見た目がみすぼらしいのだと主張する人もいる。ほんとうは欲しいのに、痩せ我慢している・・・。
 否定的な見方はきっと彼らの美学に反しているのだろう。

節約に否定的な美学としての信念

 解釈しなおすと、外的には見栄があるし、内的には変化を嫌ったり、思考停止だったりする点があるように考える。

 外的についていうと、「みすぼらしい」という見た目の不快さをあげるひとがいる。こういう人は見栄に生きる。というか生かされる。
 みんなと同じ買い物をしなくてはならない。家を買ったり、車を買ったり、保険に入ったり・・・。服の流行に乗り、誰かが行った旅行に自分も出かけて、毎年のイベントを巡ることになる。

 見栄というのが美的な信念があるのだろうか。
 きっと下に見られたくないという感覚が、同じであれば安心であるという確信に変わっているのだろう。

 武士は食わねど高楊枝という感覚は、確かに美学の文脈で使われそうである。痩せ我慢の美学かもしれない。

 他人に馬鹿にされたくはないという感覚は理解できる。ただ、見栄えを優先順位の上にはない。
 節約が大事だと言いながら大金持ちとは言えない母がそういう感じである。
 周りの人が見ている。馬鹿にするのだと言って、家や服を買う(免許がないので車だけは買っていない)。
 電車に乗ったときに、みすぼらしいと笑われると主張する。
 電車ですれ違った人の服装をそんなに覚えているのか。そもそも何日も馬鹿にしていられる人がいるなら、さすがに異常者である。そんな人のために自分のお金を使うなんてもったいない。
 そういうふうな会話をしたことがある。

 他者の視点でコントロールされるのは自分の価値観をないがしろにしている。構造的には自分をないがしろにしていることと同じであり、見栄を追求しても不幸になるだけである。

 内的についてついていうと、これこそ価値観である。変化を嫌う、思考停止としたけれども、人によっては安定を価値観にしている人もいる。

 個人として、わかってきたのは、自分は意味を見出すことに価値を見出す性質である。行動ひとつひとつに意味を見出したい。自分の言動を無駄なものにしたくない。

 そうやっていると、少しずつ行動を変えていくことになる。無駄な部分を減らし、大事だと思うものを最大限に堪能できるようにする。常に変化することになる。
 外的な部分とも関連するけれども、自分の考えを「ふつう」よりも優先したい。そうすると、自分の考えにあわせて、行動を変えていくことになる。

 仕事も誰もしていないことをしている。
 他の人がただやっているだけのことを嫌って、自分のやりたいことを探しているうちに、誰もしていないことをするようになった。
 死ぬまで食べていけるのかどうかはわからないけれども、それはそれでよい。

 節約をしていると、見栄よりも自分感覚を中心に機能性を重視する。飾り立てるよりもシンプルさにいきつく。意味のあることに全力を尽くす。
 それ以外を減らしていく。減らしていく部分だけをみると節約になる。ただ、減った分だけ美的な信念にかかわる時間や行動は増えているのだ。

結論

 節約を生存戦略でとらえると、ひとつのサバイバル技術とみることもできる。
 サバイバルをカッコ良いと思うかどうかが美学に沿っているか反しているかなのかもしれない。
 サバイバルはむしろ美しい。
 技術は古来よりアートでもある。

 個人としてはまだまだ自分の節約をアートのように感じるまでにはいたっていない。じょじょに美しくしていきたい。

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