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人と人が共に生きている意味
自分から自分への1人対話です。
結構意味不明で反論したくなることを言っているかもしれません。
言葉で表現する限界を感じます。
何をギュッと大切に掴んでるんだろう。
もういいじゃない。
要らない。
かまえるからこ突かれたくないって思ってしまう。
別に最初からわたしは言われるのがごく当然な存在なはず。
卑下じゃなく、自己責めでもなく、それがあるがまま。
あるがままを見るってとてもシンプルでいて、でも簡単ではない。
できない自分も
できる自分も
まっすぐ透明な目で見つめていけば見えてくるものがある。
さあこいって気持ちでもない。
でも逃げるような気持ちでもない。
本当につよいのはただそこにじっと佇んでいること。
うごかないこと。
私が欲しいのはおおきなおっきな心。
例えば幼い子が、
"悪いのはあなたよ"って私に言って納得するならば
"そうねえ"って
もう全然譲れるのに。
大人が大人に言われたら
感情が乗ってしまう。
"私がわるかったね"
へし折られる気持ち、ふみにじられるように歯を食いしばって。
そういうんじゃなくて。
優しさ100%でそう言えたならいい。
思えたならいい。
悔しい気持ちがあるならまだまだ無理があるってことだから、
それもそういうときは無理はしないでいい。
私の目指すほんとうのつよさ、優しさとは
きちんと自分の中では自分が揺らがずあるからこそ、
いろいろなものや人を俯瞰できるうごかなさ。
言わないといけないことを言わないで逃げるのもちがう。
だけど自分を主張してばかりもちがう。
"私がわるかったよねえ"
と思うこと、言うことで
人との中に生まれるあたたかさを私は知っている。
(この表現はかなり誤解を生むかもしれない。自己への攻撃でもなければ、媚びへつらうことなくそう素直に言えたなら、自分にも相手にもいいと思えた。)
たとえるなら、私はお母さんになったことはないけれど、お母さんが子どもに言うような気持ちかもしれない。
優しさ、純度100の"お母さんがわるかったよねえ"
それを自分が怒れるとき、涙するときも、同じように自分自身にも、そう声をかけて、心ゆくまで自分に寄り添う。
おかあさんみたいに、優しくなりたい。
みんなにも自分にも。
ものごとにも。
とここまで下書きで書いていて、結局のところ、現実はそう甘くはなくて、そうかんたんにはできないものだった。
だけど、そんなことよりも、こんな気持ちになれることが私は幸福だと思った。
そうしたいと思いながら、日々を過ごせることが何よりもたからものだと思った。
かけがえないこの気持ちを大切にしたいと思った。
だけど人間だから、そんなことかんたんにできないはずなのも当然で。
それでいい。それがいい。
私は、群れることが苦手だし、1人時間がすきだし、人と生きていくことがそんなに得意ではないかもしれない。(かと言って人が嫌いなわけではない。)
だけど、なぜだか、どかかで誰かといっしょに時間を過ごすようにできている。人間は。
ひとりでは生きられないようになっている。
人と人がいっしょに生きている意味。
その間に生まれるもの、それがとても貴重で思っている以上に尊いものなのではないか。
そもそも、みんながみんな宇宙人らしい。
違う星に生まれた一人一人が集ってできてる世界。
そう思うとすごい。
人と人のこころが通い合うとき、宇宙人同士が交信できた瞬間ってこと。
そう思うと奇跡。
その人がすきとかきらいとか横に置いといて、共に生きていてくれる素晴らしさ。
1人ならきっと生まれない沢山の気持ちを、(いいこともその逆も)ありがとう。
そのありがたみを感じながら、生きていけたならいい。そう思った。