自分の心を守るためにゆるやかにゆるす
"人のふり見て我がふり直せ"
"人は鏡"
なんていうけれど、これは
「自分が苦手意識を持ったり、"ん?"と思うような相手を見て、自分がその相手と"="であるから、気をつけなさい」ってことではないかもしれない。
何しろ鏡は逆に映るもの。
真逆のところにいても、自分の中に何かそのかけらがあるのかもしれない。
(人にはよいもののかけらと、よくないもののかけらのどちらもが、心に存在していると考える。)
私は戒めの教訓等を厳しめに受け取ってしまっていたことがあるので、ふとこの考えがよぎった。
もしかしたら、曲がり角を間違えたら、そんな風な自分にもなり得たかもしれない。(意地悪したり、人を大切にしない、威張っている等)
人って曲がるところを違えただけで、いかようにも変わってしまうのだと思う。
あの人もこの人も生まれたときは皆純粋無垢な赤ちゃんだった。
愛されて生まれてきた。
性善説を私は信じたい。
何かがあって、重なって、傷ついて、こころねじれてしまったのかも。
本人にもどうしようもないのかも。
だから、私が理不尽な意地悪や、無闇に傷つけられることを引き受けようってことではない。
(私は私も大切。)
ただ私はよく生きるために、そういう想像力を味方にしたい。
自分のため。人のために。
人に恨めしい思いを抱かないために。
"人を許し"たり、"人を責めない"でいることは、結局は自分の心を守ってあげるためでもある。
いろいろなことがある世の中だから、すぐにそれをしなくてはならないのではない。
できなければ、できないことが駄目なのでもない。
心のどこかの引き出しに、そういう考えを置いておくと、心が軽くなるかもしれない。
本日もお付き合いいただき、ありがとうございました。
(ちなみに"許す"ことについて、以前書いた記事もここに貼らせてください。)