暴力ってなんだろう。
突然ですが、暴力ってなんだと思いますか?
殴る、蹴る、踏みつける。
一般的にイメージされるのはこういった身体を物理的に傷つける行為だと思います。
しかし、暴力の形態は様々です。
怒鳴る、人格を否定するような暴言、脅す
これらは“精神的暴力”となります。
また、性行為の強要、中絶の強要などは“性的暴力”となりますし、
過度な金銭の要求や労働の制限は“経済的暴力”と呼ばれます。
このように、暴力には様々な形があります。
身体を傷つけられることだけが暴力ではないんです。
そのため、自分が相手から受ける行為が暴力であることに気づかない場合があります。
これは大学の講義の中で学んだことなのですが、その講義中にハッとしました。
もしかして、自分が高校時代にされた行為は暴力だったのでは?
だからあんなに痛かったのか。
だから今でもこんなに痛いんだ。
なんだかとても納得できました。
涙が止まりませんでした。
それまでは自分の身に起きたことがなんだったのかわかっていなかったんです。
「そんなに気にすること?」
「まだあのこと引きずってるの?」
という言葉を受けることもありましたから。
過去のことで未だに苦しんでいる自分がおかしいのだと、
気にしてしまうのは自分が弱いからだと。
そうやって自分を責めて過ごしてきたので、自分が受けた行為が暴力だったかもしれない、という気づきは衝撃的でした。
(※読んでいない方はこちらを読んでからの方が話が分かりやすいと思います)
だけど、暴力って一体何なんだろう。
自分が受けた行為がもし本当に暴力であったのなら、
私は直接手を出されたわけではない。
でも、どうして暴力はこんなにも人を深く傷つけるんだろう。
言葉そのものを理解できても、
まだ理解できない部分がありました。
この理解できない部分を理解するために、
そして、自分が受けた行為が本当に暴力であったのか考えるために。
私は、実際に様々な形の暴力を受けてきたDV被害者の方の話を聞いてみることにしました。
この機会は、大学の教授の紹介によって得たものです。
これは一対一の形ではなく、zoomを利用して被害者の方が30名くらいの参加者に自分の経験を語る、という形で行われました。
正直に言うと、暴力を受けてきた方の話を直接聞くのは怖かったです。自分の感情をコントロールできる自信がありませんでした。
逃げようかとも思いましたが、もうこれ以上自分の傷から逃げるわけにもいかなかったので、結局参加しました。
当たり前かもしれませんが、実際に被害を受けていた方の話を聞くのと教科書を読むのとでは、全く異なりました。
ここから先は、彼女が語ってくれたことです。
今回話してくれた彼女は、夫に交際から離婚までの約20年間。あらゆる形の暴力を受けていたそうです。
些細なことで怒り、罵倒され、殴られ、蹴られる。
声を出して笑えば、「みっともない」「それでも女か」と大声で罵られる。
性行為を拒めば「お前の仕事は俺の機嫌を取ることだろう」と殴られ、犯される。
泣いても叫んでも痛めつけられる。
そんな毎日を送っていたそうです。
彼女は、「今日の夫の機嫌はどうか、ということだけに支配される日々だった」と話していました。
頭の中は「今日は殴られないかな?」でいっぱいで、それ以外のことはほとんど考えられなかったと。
あまりに生々しい“暴力”の数々に、私は喉が焼けるような怒りを感じました。予想通り、彼女が話している間私は感情をコントロールできませんでした。
自分の命のために、また子供達のために、
彼女は別居を選びました。
そして彼女は内密に別居の準備を整え、
夫が仕事に行っている間に慣れ親しんだ家を出ました。
必要最低限の荷物だけを持って。
その後は、安全に過ごすことができ、
結果的に離婚の手続きもスムーズに行えたそうです。
しかし、彼女は離婚後に思い描いていた解放感や幸せを手にしたわけではありませんでした。
離婚後も、そして現在も。
彼女には暴力の跡が色濃く残っているようでした。
自分を傷つけ、苦しませた相手と離れることができても、
決して離れることができないのが記憶です。
何度も数々の暴力がフラッシュバックし、その度に壊れる心。
夢に元夫が出てくることが怖くて眠れない日々。
はたまた夢見る幸せな家庭。こだわって建てた家に、優しい夫と笑う子供たち。
円満な家庭。
その夢がもう決して現実にならないのは、自分が離婚を選んだから。
その事実がどんなに虚しくても、悲しくても、苦しくても。
自分の意思で決めたのだから、幸せになるために選んだ悲しんではいけない。
そう思うのに、なんで心に穴があいたような、喪失感があるんだろう。
彼女はその思いにしばらく苦しんだと仰っていました。
結局、心にぽっかりあいた穴が埋まらず、DVのケアセンターに行ってみることにしたそうです。
彼女は自分のその心情を話し、ケアラーにこう言われたそうです。
「手にしていた物を手放したのだから、失ってしまったのだから。失ってしまったのは事実なのだから。悲しいのは当たり前なんだよ。」と。
家も、夫も、家庭も、普通も、幸せも。
安心と安全があれば手放す必要はなかった。
けれど、子供のため、自分のため、命のためには手放すしかなかった。
だから、悲しいのは当たり前なんだ。
私は悲しんでいいんだ。
ケアラーからのこの言葉で、彼女はやっと自分が意思とは関係なく様々なものを喪失してきたことに気づき、自分の悲しむ権利を認めることができたそうです。
彼女は、涙ながらにこれらを語ってくれました。
彼女の話を聞くことで、私は“暴力”の本質を理解しました。
“暴力”とは、その人を内側から壊すことです。
身体的暴力は、その人が安心して生きる権利を奪います。
精神的暴力は、その人らしさを奪うでしょう。
そうやって、ゆっくりと確実にその人の人格を奪い、壊していくのが“暴力”です。
身体を傷つけられるよりも、
心を傷つけられるほうが遥かに痛いんです。
体にできた傷は治せても、
心にできた傷が完全に治ることはありません。
私たちには、自分自身を愛して生きていく権利があります。
他の誰にもその権利を奪うことはできません。
私はこの権利を剥奪しようとする全ての行為を“暴力”であると結論付けます。
この結論から、私が高校生のときに受けた行為はやはり暴力だったのだと考えています。
安心して生きる権利も、
自分らしさを奪われてしまったので。
今後は、こういった痛みを持つ女性のために、
私にどんなことができるのか、考えていきたいです。。
そして何か行動を起こせたらいいな、と。
ただ今はなんの力もないので、
痛みを持つ全ての女性たちに目一杯の愛を贈りたいです。
今回は暴力について私の考えを書いてみました。
皆さんはどんなことを考えたでしょうか。
なにか一言でも感想を頂けると幸いです。
ありがとうございました。