「発達障害」という呼称を変更しませんか?
今ちょっとしたトラブルに巻き込まれていて「発達障害」という言葉は何とかならんのか?ということを考える日々である。
人間に対して使う「障害」という言葉は強い。強い言葉を使ってしまうと、嘗ての僕みたく「障害ってほど大袈裟じゃないだろ~」と己の不適合を己の人柄のせいにしてしまったり、或いは「障害?!キチガイってこと?!キィ~!!!」と忌避感を持つ人が居たりと、適切に支援に繋がらないな色々な不都合が出る。
もちろん「なんの工夫もなくフツーに生きるには困難」という意味では「障害がある」という表現は正しい。もしこれが例えば「片脚がない」なら「障害だなんて大袈裟、おれがポンコツなだけ」とか、「障害?!キチガイってこと?!」とか、そんな言葉を耳にしても「そうはならんやろ」と誰もが思うに違いない。
五体満足で身体は健康なのに「発達"障害"」があるとされること。これはには二つの大きな問題がある。
一つは、多くの当事者やその家族に「障害」という言葉はストレスである、ということだ。身体障害であっても差別があるような世の中で「障害」という属性を与えられることに抵抗を感じる心理を責めることなどできない。更に「発達障害」という単語の組み合わせは最悪で、当事者が物心つく前から家族は自分の育児に難があるのではと不安にもなるだろう。そうすると、受け入れたくない、認めたくない、だったら相談・受診しなければいい、という当事者やご家族も当然出てくる。そうなれば適切な支援や対応に繋がらない。
もう一つは「障害」という言葉の持つ仰々しさが、生きづらさを抱えている当事者や家族を「そんな大袈裟な」と適切な支援や工夫から遠ざけてしまうことだ。今ここに「当事者」と書いたが、これはやや逆説的で、「当事者が当事者意識を持ちづらくなる」のである。片脚欠損のまま生きている我が子に「何でみんなと同じようにできないの!恥ずかしい!」という親は居ないだろう。「どうして皆と同じように走れないんだろう」と自己否定に陥る当事者も居ない。理由があまりに明確で目に見える形だからだ。でも「発達障害」だと、こういったズレた人格否定は全く珍しくない。
つまり「発達障害」というネーミングは、精神疾患に対する偏見、あるいは極端なイメージを想起させ、発達障害であるという事実から遠ざけて却って事態を深刻化してしまうのだ。「うつ病は心の風邪」という言葉には功罪共にあるが、それでも数多の潜在的患者を医療へ繋げた点は評価せねばならぬ。発達障害にもキャッチーさが欲しいのである。
ところで、片脚欠損という比喩は、元夫が僕に使った表現だ。少し僕の例を自分語りさせてほしい。「あなたは片脚ないのに50メートル走を人より速く走るから、誰も、あなたも、あなたに片脚がないってことに気づいてない」、元夫はそう言って僕にASD当事者の漫画ブログを見せてくれた。「あなたもこの人と同じようなことしてるでしょう」と。僕はあまりにその作者が似通った行動を取っているので酷く驚き、また「仲間がいる!」という喜びも得た。
ただ、僕がある意味不幸だったのは、僕が賢かったということだ。今はどうだから知らないが「ASDは接客ができない」というのが少なくとも数年前の時点では定説だった。でも僕は接客コンクールでぶっちぎって優秀賞を獲得するほど接客は頭抜けて得意だった。だから「まぁ違うだろ」と思ってしまったのだ。加えて、所謂「発達界隈」の未診断者への風当たりの強さと、メンタルクリニックに不信感があって診断を取るつもりがない、という僕の相性の悪さがあって情報収集が遅れた。当時は一時的にTwitterをやっていなかったのだが、このアカウントを作ってから周囲を見回すと「未診断の者が発達疑惑を名乗ること」にTwitterは著しく不寛容だった。深刻な問題にファッションで首を突っ込むな、ということだ。だから、発達障害ですと医師に認定されるほど酷い状態で困っている人が発達障害であって、僕みたいなのは「かも知れない」と人に言うことすら烏滸がましいのだと、そう考えた。さすがに「病院行けよ……」と言われるような浮き方はしていなかったから。
それから数年後、結局うつ(ではなく双極)を患い、人生の底の底まで行って閉鎖病棟に入るまで、その問題は捨て置かれていた。入院したとき総ての澱を片付けようと思って初めて「実は疑っているのだ」と発達障害の相談をした。ADHDに関してはすぐにストラテラが出たけれど、ASDは当初主治医に否定された。ところが、半年経ったころ唐突にひっくり返って確定診断が出た。僕はIQがかなり高い。「知能でズレを補正しているからそう見えないだけ」と主治医は指摘した。確かにその通りだった。接客も自分の中でスクリプトを作り、パターンを細分化して対応していた。「システマチックで誰でも再現可能」として本を書きたいと思っていたくらいだ。「接客が苦手は当てはまらない」と外していたが、要はものすごく出来のいいマニュアル接客だったわけだ。
今の発達界隈の事情には疎いのだが、HSP(繊細さん)という概念がパーッと広がったためなのか、確定診断は怖いあるいは違うと思うが生きづらい、という未診断の民はそちらへ流れたのではあるまいか。HSPという名乗りに対してもやはり快くない気持ちを持っている発達当事者も珍しくないが、それは、HSPが診断名ではなく、それゆえ医療や福祉と連携して事態の解決に当たる機会が少なく、「私は繊細なので丁重に扱ってください」というメッセージに終始してしまうケースが多いからだろう。だが、だからこそ、僕はこのHSPという呼称に発達障害の未来を感じている。「気質です」、それだけで済めば、もっと自分の違和感を人に相談したり自己開示したりができるようになるかも知れぬ。人は正体が解らないものを恐れるから自己開示は大切だし、理解され難いなら尚更だ。でも言語化で躓く、自覚がないなど課題も多い。職場のストレスチェックみたく、一斉にスクリーニングする機会があればよいのではないかと僕は思う。そのときに「あなたは発達障害の可能性があります」ではなく「この点に関して人よりデリケートに感じやすいようです」という形で結果を示すことで、自己理解や多様性尊重の足がかりにできるのではあるまいか。
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本日のサムネイル詠唱
"The photo of the beautiful young Caucasian boy and Caucasian girl they look at the right side, with expressions of quiet despair, in a very pulled composition with a lot of landscape taken with Canon EOS 5D Mark 4 and SIGMA Art Lens 35mm F1.4 DG HSM lens, f/2.4, ISO 200, shutter speed 2000."
by Stable Diffusion
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