【現代アート⑦】自我を殺したアーティスト | ジャスパー・ジョーンズ
政治でもビジネスでも、皆がみな器に収まっていたら変革は起きない。周囲の目を気にして、既存の価値観を模倣していては、面白いイノベーションなど起きるはずもない。それはアートの世界でも同じであろう。
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あいつもこいつも器におさまり
僕の好きなオルタナティブHIP-HOPユニットであるDos Monosもラップの中で、そんなつまらない世間を批判している。(実際、彼らDos Monosのサウンドは反逆的で反抗的である。最高に大好きだ)
そして今回、紹介するアーティスト ジャスパー・ジョーンズも、そんなこれまでのアートとは全く趣向の違った作品を作っていた。
❶〈主観〉から〈客観〉へ
彼はアメリカ国旗を描いて作品とした。
こんなものを見せられたら、現代アートがますます分からなくなってしまうかもしれない。
これは単なる模写であり、創作や創造といった類の匂いを、この絵からは感じ取ることはできない。
だが、それで正解なのだ。
彼の作品を一言で表すのであれば、
「自我を徹底的に排除した客観的アート」である。
「主観的なものだけがアートではなく、記号的で客観的なものもアートである」というコンセプトこそが、この作品の価値なのだ。
だから彼は、決して作品を美しく魅せようともしていないし、彼の内面にある情感や感性を発露させようともしていなかったのだ。
限りなく「自分」を薄めたジャスパー・ジョーンズの潮流は、のちのポップアートの先駆けにもなった。
❷「芸術は爆発だ」的な日本アートとの違い
僕たち日本人は、アートを基本的に、フェチズムに満ちた感性感情の発露だと思いがちだ。
岡本太郎氏の名言「芸術は爆発だ!」は、まさにそのことを指している。
もちろん、そういったアートの考え方は主流だと思うし、実際に僕らは学校教育の中でそのように教わってきたはずだ。
創造的な絵画やドラマチックで感情を動かされるようなものが評価されがちだからだ。
しかし、そうではないアートがあってもいいのではないか。
感情を極限まで抑え込み、記号的で現前性の塊のようなもの。
そうしたコンセプトをアート界に持ち込んだのが、デュシャンだった。そしてジャスパー・ジョーンズもデュシャンと同様の非網膜的な思想を持っているのである。(ここでいう「網膜的」とは「目で見て楽しむだけの」という意味である。デュシャンは目で見て楽しむものではなく、コンセプトそれ自体に意味を見いだした。)
このように、日本には岡本太郎に代表される「芸術は爆発だ!」的な流れが強いため、ジャスパー・ジョーンズのようなアートが理解されづらくなっているのも、一つ間違いではないだろう。
❸ジャスパー・ジョーンズの代表作
《4つの顔のある標的》(1955)
《旗》(1954 – 1955)
《ホワイトフラッグ》(1955)
《白色の数字》(1958)
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