震度7をくらったマンションで起きたこと|阪神大震災から30年
あれからもたくさんの地震が発生したけれど、大型マンションやビルが震度7で揺さぶられた、という点は少し特殊かもしれない。
7歳だった私の目を通した記憶ですが、都市部やマンション在住者にとって、多少なりとも被災想定の参考になれば幸いです。マンションで大地震がきたらどうなる?
1.地鳴りの後に大雨が降る
当時住んでいたマンションは100世帯を超える比較的大きなマンションの5階。両親とともに寝室で寝ていたところ、ドーンと突き上げられ目覚める。真っ暗な中、両親がとっさに覆いかぶさってきたことで尋常じゃないことが理解された。ベッドにしがみつくのが精いっぱいの横揺れの中、一番恐ろしかったのはガラガラゴトゴトとすぐ隣を巨大な台車が通っているような轟音(地鳴りだったらしい)。目を閉じて、夢であれ、一秒でも早く終われと祈っていた。
終わらないんだなーこれが。ほんとに長かった。やっと地獄の台車が遠のいても、しばらくじっとしていた。そうするとザーーーーーーーーーと滝のような大雨が降ってきた(音でわかる)。
阪神大震災の日、どこにもそんな大雨は記録されていない。けれども恐怖心による幻聴でもない。あれは、マンション屋上に設置された貯水タンクが割れて中の水が一気に流れ落ちる音だった。その後、2か月ほどマンションの水道設備は壊れたまま。断水期間、長かった。
2.撒菱コーティングされたリビング
1月の6時前はまだ真っ暗だ。子供の泣き叫ぶ声、ドアの開閉音やバタバタ走り回る足音、安否を確認する大人たちの会話…異常事態が漏れ伝わる。
室内ではあらゆる家具が倒れ、食器やガラスの破片が散らばっている。もちろん停電していて父親がもつ懐中電灯以外に明かりはない。薄暗い部屋で、安全の確保が難しい。30分もすると外が白んできて状況を把握しやすくなったけど、まぁ何も解決はしない。私はストレスで発熱した。
リビングでは冷蔵庫と食器棚のすべての中身がぶちまけられ、撒菱のようなガラス片が、卵やスープで床中にコーティングされたまま固まってしまった。水道がないので拭き掃除もままならないため、一か月以上、子供はリビングやその向こうの部屋に立ち入ることができなかった。
3.体育館が潰れることもある
マンションが倒壊しなかったことが本当に不幸中の幸いだった。ぺしゃんこになったフロアもなかった。でもぎりぎりだった。壁面は破れ、すべての柱にX字のヒビがはいり、廊下には階下が見える穴がぼこぼこ開いている。ちょっとした余震でいつペシャンコになるとも知れない。
当日夕方には、同じマンションの仲のいい4家族で小学校に避難したものの、小学校の体育館の天井が抜けていた。避難者は古い校舎の教室で寝るしかなかった。我々は1階の理科室の片隅に。床も壁も隙間だらけで寒い。子供の分だけでも・・みたいな会話とともに毛布が配られたのだけど、どこから出てきたのか。親はほんとに大変だったと思う。
結局、プライバシーもない、安全とも思えない古校舎で震えるぐらいなら、と翌日にはマンションに戻り、なじみのメンバーで「死ぬときは一緒ね」と笑いながら、一番部屋の被害がましだったS家に4家族が集合。ペットボトルの水を一口含んで歯磨きをして、みんなで寝た。
たびたび余震は来たけど、マンションは耐えてくれた。
震災から3日目の朝、和歌山の親戚が必死の思いで迎えに来てくれる。一部区間の電車は動いてるらしい。両親と別れ、叔父さんに連れられて私とペットのハムスターは被災地から逃げ出した。
4.全壊のマンションに半年以上住み続ける
震災直後はみんなおっかなびっくり歩いていた穴あき廊下にも、数日もすれば慣れてくる。「いつか床抜けるかもね~」と言いながら井戸端会議が行われていたり、水道が下まで来た~!と喜んだり、悲惨な状況の中でまさに災害ユートピアが形成されていたように思う。
30年前といえど阪神間の住宅地なので転勤家族も多く、震災まではそこまでご近所づきあいが盛んなマンションではなかった(と思う)。ただ大きな困難を前に、数百人の住人が団結できたことで早期に建て替えが決定。現役世代が多かったこと、建設業や建築に明るい住人が複数人いたこと・・など幸運も重なっていたように思う。震災から半年以上たった秋ごろから徐々に引っ越す人が増え、年内にはマンションの解体工事が始まった。
5.再建後、謎神輿を購入
同じ地域内でも、建て替えがスムーズに決まったマンション(少数派)、補修と再建で長期間もめたところ、一部潰れているのに立ち退けない方がいて補修工事すら手を付けられない建物…様々だった。集合住宅での被災は、自分たちだけでどうしようもできないことが多い。
数年後、新しいマンションが再建したあと、なんと管理組合は小さなお神輿を購入していた。これまで参加していなかった地区のお祭りに、マンションとして参加することに決めたようだった。当時はよくわからず、なんの伝統もない白いお神輿を担ぐのもかっこつかないなぁ、なんて思いながら参加していたけれど、当時の親世代はきっと共同体の団結力を緩めないために必死の思いだったに違いない。
ふだんは淡泊な付き合いがマンション暮らしの気楽さともいえるが、非常時になれば共同体の力が強いかどうかで被災後の生活再建の明暗が分かれる。
そんなこと、あらゆる文脈で研究されたり言われていることだけど、マンション被災した経験を改めて今振り返ることで、痛感しています。
最後に
本投稿は、「震度7をくらった」割りには親しい間柄で亡くなった方はおらず、大変なことはたくさんあったけども家族と共に暮らし続けられた側の身勝手な思い出話にすぎません。そんな文章をインターネット上に放流すことにずっと躊躇いがあったのですが、とはいえそうやって引け目から黙っていると、被災に対して画一的なイメージ(焼け落ちた東灘区、がれきを前に呆然とする被災者、みたいな)しか広がらない気がして…。でも実際には、たとえ大震災のような災害であっても、被災状況は5mの範囲でガラリと変わります。
ここまでお読みいただいた方におかれましては、「もし今この瞬間この場所で地震がおこったら、1秒後に何をして、1分後にどうなって、10分後、1時間後にどうするか、1か月後は何に困りそうなのか、1年後にどうなりたいか」シミュレーションしていただけないでしょうか。家族との食事中、電車の中、会社のコーヒーブレイク中でも…それをみんなが積み重ねることでしか、防災力は高まらないと思っています。
阪神淡路大震災からは30年が経ちましたが、能登の震災からはまだ一年。29年前の我が家(つまり被災一年後)は、全壊マンションを出て、ちょっと離れた知らない地域のアパートに仮住まいしてました。小学校には電車で通学。あの場所にも慣れたんだけど、好きにはなれんかった。戻れんのよなぁ、一年では。
能登の復興の道のりもきっと長かろうと思うのですが、それでもどうか一日でも早く心安らぐ日常を取り戻せるよう祈らずにはおられません。今の私にはなにができるんだろうか・・。