ベトナム歴史秘話:1945年3月なぜ『ベトナム』という国号で独立したのか?
1945年9月2日、ベトナムはその年2度目の独立を宣言しますが、その直前まで半年にも満たない期間存在したのが「ベトナム帝国」。
1945年3月の仏印武力処理(明号作戦)で日本よりフランスからの独立が可能であることを告げられた阮朝(グエン朝)は、なぜ「ベトナム」という名を冠した国号としたのでしょうか?
ベトナムという名を選んだ日本人とその思惑。ベトナムと叫んで消えていった人々とその秘められた想い、それを記録し広めたフランス人。数十年前それぞれの言語で書かれた当時の資料を見つけ出し、1945年3月「ベトナム」という国号が選ばれた知られざる事情を探ってみました。
1. 越南(ベトナム)を国号としていなかったグエン朝
さて、ベトナム全土を統一したグエン朝は、中国・清王朝に朝貢し1804年、越南(ベトナム)という国号を受け取ります。しかしこの越南が使われていたのは1839年まででした。第2代目皇帝ミンマン帝は国号を「大南」(Dai Nam、ダイナム)へ変更します。
それは国家の象徴でもある國璽(国の印鑑)からも見ることができます。現在ベトナム国立歴史博物館に所蔵されている、3代目皇帝であるティエウチ帝の紹治七年(1847年)に作られた國璽が以下です。
上記画像の左上から「大南受天永命傳國璽」と書かれています。大南国がこの土地を永久に統治する天命を受けて、それを伝える印鑑という意味でしょうか。
またベトナムが完全にフランスの植民地(直轄地及び保護国)となった1884年のフエ条約でもベトナム側の代表は、大南国の輔政大臣、全権大臣として署名しています。
しかし公式の名称とは別に一般的に使われている国名が安南(An Nam)でした。その関係については、1832~1851年中国の広州でプロテスタントの宣教師のために書かれた定期刊行物The Chinese repositoryのvol16(1847年発行)にて以下のように書かれています。
植民地化したフランスも、その半世紀後に進駐した日本もこの国を安南と呼び、国民は、Annamite、安南人と呼ばれていました。
なお1906年、東遊運動で有名な民族主義者のファン・ボイ・チャウ(Phan Bội Châu)によって「越南亡國史」という本が中国語で発行され「越南」という名前が再び出てきますが、漢文を読める一部独立運動家の利用を除き、一般では「安南」が用いられている状況です。
よって1945年3月の独立時、本来であれば公式の国号「大南(ダイナム)」帝国か、一般的に使われている「安南(アンナム)」帝国とするのが通常であると考えられます。しかし越南(ベトナム)が選ばれた。
実はこの時「ベトナム」を選んだのは、日本人であるという資料があります。
2. なぜ日本人は「ベトナム」を選んだのか?
前回の記事でも紹介した昭和24年(1949年)初夏に丸山静雄氏によって執筆され、同年末に出版された「失われたる記録 対華・南方政略秘史」という古書があります。
前回の記事で取り上げた様にバオ・ダイ帝に独立を働きかけ、ベトナム帝国の最高顧問に就任した日本の外交官、横山正幸氏。彼は、いったん中国軍に拘束されるも1946年6月に日本へ帰国すると、1947年から講和条約発効の1953年まで駐留米軍家族宿舎(東京練馬区)の管理事務所長という閑職であったため、丸山氏の取材を受け独立に関する交渉現場にいた当時者しか知らない内情を語ったものと考えられます。
また1945年10月のメモワール供述時と異なり、既に極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)が1948年で終わっていたため、当時の状況を語っても新たに戦犯として訴追される可能性が低いと認識していたのでしょう。さて本文には、メモワールにも書かれていない驚くべき内情が書かれていました。
まとめると以下の内容です。
なおこの「フユー」による発言由来であることについては戦後、国会議員となった元大本営参謀、辻政信が国会で外務大臣へ「ベトナムという文字が国際的に公然と使われたのはいつからか?」と質問した際にも、紹介されていました。
そして前述の「民族独立の意欲に応えよう」の背景には、将来の戦争終結(仏印における日本の地位・立場の喪失)を見据えて、今のうちに民族的要望に応えておき、この戦争・日本の大東亜施策における正統性を示しておこうという日本・外務省上層部の意図があったことが、戦後すぐの1946年2月に作成されたという外務省の資料からもわかります。(以下それを基にした論文より、右側が当時の資料からの引用)
さて、日本人が「ベトナム」を選んだ理由はわかりましたが、そもそも選ばれた要因である、「ベトナム」という言葉を叫んで処刑された人物フユーとはいったい誰なのか。1930年にここでは何が起き、なぜ処刑されることになったのかについて、さらに調べを進めてみます。
3. ベトナム!と叫び処刑された13人と「ベトナム」に込められた想い
まず1930年どのような処刑があったのかについて把握するため、インドシナで行われたギロチンによる処刑者リストを探しました。
1930年は、Militants indépendentistes(独立運動家)と書かれた政治犯とみられるの集団処刑が多くそれらは北部で行われていました。ちなみにサイゴンでは隣町のチョロンで一般犯罪(強盗殺人犯)の処刑1件だけです。
そして具体的な処刑時刻まで記されている1930年6月17日の13人の処理由には、Rebelles de Yen Bai.(イエンバイの反乱軍)と書かれています。そうベトナム近代史では必ず出てくる「イエンバイ蜂起」の首謀者たちです。
1930年2月9日の夜から2月10日、ベトナム北部のイエンバイ(Yên Bái)にある植民地軍の駐屯地が襲撃される反乱がおきました。中国の国民党の影響を受けて1927年にできたばかりのベトナム国民党 (Việt Nam Quốc Dân Đảng, 頭文字を取ってVNQDĐとも呼ばれる)が、フランスからの独立を目指して引き起こした反乱です。
北部では各地の駐屯地などが襲撃され、フランス人将校2名と下士官3名が死亡、その他複数のけが人が出たものの、計画の発覚を恐れて急遽決行したことによる準備不足もあって、結果的に蜂起は失敗に終わります。
そして反乱に関わったとして547人が起訴され、(後に減刑や恩赦された数も含む)死刑80人、終身労働刑102人、終身刑2人、国外追放243人、労働刑43人、無罪18人、証拠不十分での釈放は58人といった判決を受けました。フランス語のサイトBrasillach et la mutinerie de Yên Báiより
死刑を受けた首謀者であるグエン・タイ・ホック(Nguyễn Thái Học)達13人は、イエンバイにて6月17日の早朝、ギロチンによる公開処刑を受けます。
この最後の瞬間はフランス語の公文書として記録され、一部がベトナム語訳されてベトナム国立公文書館のサイトで紹介されています。それを日本語にすると・・・
彼らは確かに処刑寸前に「ベトナム」と叫んでおり、その場にいた人はその言葉を聞くことができたものの、それがなぜベトナム全土に広がったのでしょうか?このような公文書や処刑の瞬間に発した言葉が、植民地内で自由に新聞報道できたとは考えられません。
実は、この処刑の場にいて自らそれを聞き、それを言論の表現がある程度認められたフランス本国に帰国後、書籍という形で世に広めたフランス人ジャーナリストがいました。その人物こそLe Petit Parisien紙の新聞記者ルイ・ルボー氏(Louis Roubaud、1884~1941)です。
その書籍が1931年発行の「Viet-Nam: La tragédie indochinoise」(ベトナム・インドシナの悲劇)。
本文には処刑シーンについて以下の様に書かれています。
ちなみにルイ・ルボー氏は、彼らが最後に発した言葉として安南(アンナム)ではなく越南(ベトナム)を選んだのには、次のような意味もあると考察しています。なお日本語訳の()内は、補足です。
そしてこの書籍は、植民地であるフランス領インドシナでもフランス語を読めるようなベトナムの知識人(中・上流層)たちの間で知られていくことになります。
しかし植民地政府にとって都合の悪いことを暴露し、独立運動を刺激するこの本は、フランス領インドシナにおいて販売と所持が禁止されました。
一方で禁止されるような本ということは、フランス支配に不満を持つ者たちの間でより関心を呼んだと考えられ、密輸され地下で広まっていったと考えられます。
さて、確かに「ベトナム」と叫んで処刑された独立運動家はいましたが、場所は北部でした。しかし「失われたる記録 対華・南方政略秘史」には南部、サイゴンで処刑された18歳の広東大学生フユーという人物が紹介されています。では、彼は何者なのか?
実は、在ホーチミンの日本人なら彼の名前を1度聞いたことがあるでしょう。
「Ly Tu Trong」、日本人街として知られるレタントン通りと並行するリー・トゥ・チョン通りとして名前を残す彼こそがフユーでした。
4. 青春の道には革命の道以外ない~ある若者の人生と当時の記録~
ベトナム共産党のWEBなどで紹介されているリー・トゥ・チョンの人生は、以下の通りです。
Lý Tự Trọngは本名をLê Hữu Trọngと言い、両親はベトナム人ですが1914年10月20日にタイで生まれ、10歳で中国の広州に渡りすぐに中国語や英語までも習得した彼は、広東大学の初等科で学びます。1929年、広州で活動していた共産党幹部と一緒にベトナムへ帰国(密入国)し、サイゴンではNguyễn Huyと名乗ります。おそらくこのHuyという名前の発音が、日本人にフユーとして記憶されたものと考えられます。
1931年2月8日、サイゴンで開催されたイエンバイ蜂起1周年のイベントで同志を守る為、フランスの秘密諜報員を射殺。しかし逮捕されてしまいます。
逮捕時16歳(生まれた時を1歳とする数え年で17歳)という未成年であったことから弁護士は彼の罪を軽くするため、「未成年であったがゆえによく考えずに行動した思慮のない行為であったこと」を主張し減刑を狙いますが、彼はここで有名な発言をしてそれを拒否しました。
結果、彼は死刑判決を受けて1931年11月21日に17歳(数え18歳)でギロチンによる処刑を受けました。彼は処刑の間際、「フランスの植民地主義者を打倒せよ」、「インドシナ共産党万歳」、「成功したベトナム革命万歳」といった言葉を発したとされており、「ベトナム」という言葉が含まれています。
なお余談ですが彼が収監されて処刑された場所は、かつて中央刑務所があった現在のホーチミン市総合科学図書館であり、それゆえそこに面した道の名前がリー・トゥ・チョン通りとなったとされます。(南ベトナム時代は、ザーロン通りという名でした。)
では、当時の記録では実際どのような事件であったとされ、どのようにして彼のことが独立のシンボルとして広まったのでしょうか?まず事件報道を調べてみます。
FIGARO紙で見つかったのはこの記事だけで、Huy氏の名前も同年11月21日の処刑も見つかりませんでした。もちろん見つけられなかっただけで他には、ある可能性がありますが・・・。
実はこの事件とHuy氏の最後を書籍という形でまとめ、世界に紹介したフランス人ジャーナリストがいます。反ファシストの女性活動家としても知られるアンドレ・ヴィオリス(Andrée Viollis、1870~1950)氏です。
彼女は、1935年にIndochine S.O.Sという本を出版しています。
87年前の本であることから「Viollis-Indo SOS Indochine」というPDF形式で無料公開もされており、この8ページに目にHuy氏のことが書かれています。
また処刑当日、彼女はハノイにいて直接見聞きしてはいないものの、証言を集めてHuyの最後を次のように紹介しました。
そう、彼も死の直前で「ベトナム」と叫び処刑されました。そしてそれはフランス本国で出版された「Indochine S.O.S」を通じ、未成年にもかかわらず独立を目指してフランスに処刑された人物であること、彼も発した「ベトナム」という言葉・・・これらが知識層へ広がっていったと考えられます。
よって「失われたる記録 対華・南方政略秘史」では1930年のイエンバイでの処刑と、1931年のHuyのサイゴンでの処刑が一つの事件として誤って記述されたのではないでしょうか。
5. 国名「ベトナム」をなぜ皇帝は受け入れたのか?
しかし最後に1つ疑問があります。
かつて清王朝から与えられた国号ではあるものの、ベトナム国民党やインドシナ共産党といった封建体制を認めない革命派から始まった言葉でもある「ベトナム」です。なぜグエン朝の皇帝バオ・ダイは受け入れたのでしょうか?
その疑問に答えるような資料も見つけ出しました。1934年ハイフォンで出版された「トンキンのフランス保護領を訪れたバオ・ダイ陛下の12日間(12 ngày của Ðức Bảo-Ðại tại Bắc-Kỳ)」という本です。
この本の84ページ目の下部には、
という記述があり、バオ・ダイは、「ベトナム」という言葉が自分の体制=グエン朝への称賛の一環として使われていたことも知っていたと考えられます。それゆえ1945年3月「ベトナム」の採用にあたっても問題はなかったものと考えられます。
以上長くなりましたが、「ベトナム」が選ばれた過程について、まとめると以下の結論となります。
そのようにして独立したベトナム帝国(Đế quốc Việt Nam)ですが、実質的には日本軍による傀儡国家でした。
また独立に関与したはずの当事者である日本(大日本帝国)でさえ、この「ベトナム帝国」を独立国家として国家承認していなかったことが戦後、外務省の国会答弁から明らかになっています。
ポツダム宣言を受託し日本の敗戦が確定すると8月30日にバオダイは退位しベトナム帝国は崩壊。そして1945年9月2日、日本がミズーリ号上で降伏文書に調印した日、現政府に繋がるベトナムは独立宣言を行います。
しかし本当の意味での独立と自由を手に入れるため、さらに長い年月と膨大な血の犠牲を払うことになり、そしてその過程を経て現在の平和なベトナムへと繋がっていきます。2022年9月2日、そんなことを考えこの記事を公開しました。
この記事が何かお役に立てたのならフォローやハートマークの「スキ」を押していただけると、励みになりますので、よろしくお願いします。