ベトナム歴史秘話:なぜ民族の英雄は、巨乳として歴史書に記録されたのか?
近世ベトナムの公式歴史書において中国と戦った民族の英雄ながら唯一、その胸の巨大さについても言及されている女性がいます。19世紀、ベトナム皇帝でさえもその理由が分からずに困惑したという歴史書の記述です。
なぜ彼女の胸の大きさは公式の歴史書に記述されたのか、そこにはどんな理由があったと考えられるのか。ベトナムの歴史書、中国の歴史書の原文における記述を探し出し、古代・中世・近世とその記述の変遷を調べることで、中越関係における英雄の実像と真相について探ってみました。
1. 三国志にも出てくるベトナムでの反乱
以前の記事で取り上げた様に古代ベトナムでは、最初の女性英雄、徴姉妹(ハイ・バ・チュン)が反乱を起こしたものの、馬援によって平定されてしまい、再び中国漢王朝(後漢)の支配下となります。
そして後漢末、交州と呼ばれたベトナム北部は、士燮(ししょう)と呼ばれる人物が漢王朝の交阯太守として統治しており、民衆からも敬愛されて政情は安定していました。しかし後漢は、2世紀末に黄巾の乱によって一気に衰退し、日本でもよく知られている三国志(魏・呉・蜀)の時代へ移り変わっていきます。
士燮が226年に90歳という長寿で亡くなると、呉の孫権はベトナム北部を直接支配下に置こうとしました。その理由として考えられるのは、交易による収益の確保です。
有名な話として西暦166年、大秦王安敦(ローマ皇帝、マルクス=アウレリウス=アントニヌス)の使者がベトナム中部の日南郡に来て、象牙・犀角・タイマイ(海亀の甲羅)などをもって漢王朝に入貢したことが歴史書『後漢書』に記載されています。ローマの使節というのは偽りと言われていますが、当時ベトナム北部は、インド洋方面まで繋がる交易路(海のシルクロード)の一部であり、ローマ帝国の存在も知っていたと言われています。
よって呉としては、自国よりもはるかに豊かであった魏に対抗するため、南からの交易ルートを独占して経済力向上を狙ったと考えられます。
呉に対しては、士燮の子供たちにより「士徽の乱」という反乱が起こりましたが、孫権が派遣した呂岱によって鎮圧されます。士徽を含む士燮の子供たち6人は全員殺され、ベトナム北部は呉の支配下に入りました。
そして22年後の西暦248年、交趾の南にある九真郡では再び反乱が起こったとされます。
その反乱を起こした人物こそ、古代ベトナムにおいて徴姉妹(ハイ・バ・チュン。各地にあるハイバーチュン通りに名を遺す)に続く2番目の女性英雄、趙嫗(ちょう おう、チェウ・アウ、Triệu Ẩu)です。
彼女は他にも、趙氏貞(チェウ・ティ・チン、Triệu Thị Trinh)、婆趙(バ・チェウ、Bà Triệu)、趙貞娘(チェウ・チン・ヌオン、Triệu Trinh Nương)など様々な名で呼ばれていますが、以降は歴史書の記述通り、趙嫗として紹介しましょう。
さて話は変わりますが昨今の三国志ゲームや書籍などにおいて、彼女が登場していることはご存知でしょうか。
三国志雑学本「絶対に人に言いたくなる ろくでもない三国志の話」より
趙嫗の画像検索すると色々出てきますが、多くのキャラクター画像において胸が大きく描かれている特徴があり、それは歴史に基づいて描かれているとあります。
また彼女は象に乗って呉と戦ったものの、呉の陸胤(りくいん。関羽や劉備に勝ったことで有名な陸遜の遠い親戚)率いる軍に敗れます。なおWikipediaやネットなどでは、戦闘中に陸胤及びその兵隊が全裸になったことで趙嫗を動揺させることに成功し、象から落ちて踏みつぶされたとか、敗れて自殺したなどの最後も紹介されています。
さて、これらはいったいどこら辺までが本当の事なのでしょうか?
2. 近世ベトナムの公式歴史書に記述された趙嫗の胸
まずベトナム最後の王朝である阮朝(グエン朝)が作成したベトナム公式歴史書である『欽定越史通鑑綱目前編 國史館朝阮』において趙嫗について書かれている部分を見つけました。
中国、北宋時代の楽史(西暦930~1007)が書いた、「太平寰宇記(たいへいかんうき)」からの引用として趙嫗について「乳長三尺」(乳房の大きさが三尺もあった)、「不嫁」(結婚せず)、金のサンダルを履いて象に乗って戦い、死んで神となった。そして清化美化縣富田社(現タンホアにあるBa Trieu Temple (Đền Bà Triệu))に祀られたということが書かれています。
おそらくこれがベトナムの公式な歴史書上で胸の大きさまで記録されている唯一の女性です。ちなみに中国三国志の時代の一尺の長さは、23~24cmほどと言われており、三尺というのは乳房の大きさだけで約70cm近いサイズになります。興味深いのは、上部にこれを読んだ皇帝の感想が書かれており、
ベトナムには古来から才能豊かな女性が多いとして、趙嫗及び、二徵(ハイバーチュン)を挙げてる一方、なぜか趙嫗の胸の大きさまでが記録されていることに「滑稽なのは、乳房の大きさが三尺もあることだ」と困惑し苦笑している様子も書かれています。
つまり19世紀のグエン朝皇帝及び官僚たちには、なぜ歴史書に「乳長三尺」と書かれたのか、その理由が分からなかったということでしょう。
では引用元である「太平寰宇記」の記述はどうなっているのでしょうか?
3. 中国の歴史書上ではもっと胸が大きかった!
「太平寰宇記」は、宋が中国を統一した979年を基準として、中国や周辺の異民族地域の歴史地理を記述した文献です。こちらは後の清王朝・乾隆帝の時代に、古今のありとあらゆる書籍を編纂した四庫全書にも収録され、それが現在ネット上でも閲覧可能となっています。
なんと「乳長五尺」と二尺分も大きくなっています(笑)
では、別の資料はどうでしょうか?同じ中国の北宋時代に作られた百科事典「太平御覧」という文献も四庫全書に収録されていました。
なんと「乳長数尺」とさらに胸のサイズが大きくなりました。加えて興味深いのは、山中に立て籠もって盗賊団を集めて郡(都市)を襲ったことや、戦いを終えるとテントを空けた状態で堂々と、年若い男たち数十人を侍らせて奉仕させていたという、まさに女傑(豪傑)とも言える姿が描かれています。最終的に陸胤によって平定されたとありますが、陸胤が全裸になったのを見て動揺したというのとは、真逆の人物像です。
ちなみに「不嫁」(嫁に行かない)というのは、古代のベトナムが母系社会であったため、嫁には行かず男が婿に来る、そんな社会風習を中国側から見て書いたものと考えられます。
趙嫗は、民族の抵抗運動の英雄として現代の書籍で紹介されていますが、巨大な胸の話も、年若い男たちを侍らせて楽しんでいたなんて話も、おそらく書いてないと思われます。
さて「太平御覧」は、劉欣期によって書かれた「交州記」(交州地域の文物や習慣などが書かれた記録)を参照しているとあります。本当に交州記には、そのような記述があるのかも確認してみましょう。
早稲田大学図書館の古典籍総合データベースでは、陶宗儀,(西暦1316~1369年)によって編纂された説郛という資料が公開されており、そこには「交州記」が収録されています。その73ページ目の記述がこちら。
ちゃんと「乳長数尺」と書かれていました。ちなみにこの交州記は、三国志(呉)のすぐ後、西晋(西暦265~316年)の時に劉欣期によって記述されたものです。
しかし「乳長数尺」というのは、とても事実とは思えません。では、ほぼ近い時代に書かれた他の歴史資料ではどのように書かれているのでしょうか?2つの資料を見てみます。
1つは、同じく早稲田大学図書館の古典籍総合データベースで公開されている中国の北魏時代、酈道元(西暦469~527年)が作った地理書である「水経注」です。以下15番目の資料内の25ページ目より
呉王朝で使われていた元号の赤烏十一年(西暦248年)に交州、林邑で大いに戰い、初めて區粟を失ったとだけあり趙嫗の名前が出てきません。ではもう1つ、公式な歴史書である正史三国志(西晋時代に陳寿が作成)では、どのように書かれているのでしょうか。
正史三国志は、紀伝体と呼ばれる人物ごとに書かれた歴史書になりますので、「呉書」陸凱の項目に弟「胤」として記述されています。
ここには、西暦248年に反乱がおきて賊が都市を落とたので、陸胤が鎮圧に向かいますが、説得により3000家以上が投降したとあります。なお高涼で渠帥という地位にあった黃吳という反乱軍の人物名が出てきますが、趙嫗の名前が出てきません。
さらに南へと軍を進め、民には誠実に対応することを宣言し、財貨なども与えたので、賊100人以上と5万人以上の民が感動して投降したともあります。この功績により陸胤は、安南將軍になりました。趙嫗の名前も陸胤の全裸の話も一切出てきませんね(笑)
さて百科事典や地理、地方の風土記には出てきても、中国の王朝における公式歴史書(正史)には、趙嫗の名前が出てこない・・・これはいったい何を意味しているのでしょうか?その秘密を解くカギを、中世ベトナムで書かれた歴史書から探ってみます。
4. 趙嫗の反乱の真相とは?
ベトナムの歴史書には、「安南志略」というものがあります。1285年、中国の元朝がベトナムへ攻め込んだ時に陳朝の役人であった黎崱(れいしょく)という人物が捕えられて元の役人となり、古代からの政治、社会、文化、歴史、有名人など項目ごとに編纂しました。現存するベトナム歴史書の中で最古といわれる重要資料です。この記録を見てみましょう。まず人物の項目(卷十五、148ページ目)より。
叛逆の人物欄に徴姉妹(ハイ・バ・チュン)と並んで趙嫗の記述があります。ここでは「乳長三尺」以外に、象に乗って戦ったこと、山中から出てきて街を荒らしまわったりして、陸胤によって誅された(殺された)ことが書かれています。しかし年若い男たち数十人を侍らせて楽しんでいたという記述は、事実ではないだろうとして消えています。
次にベトナムの歴史の個所についてはどのように書かれているのでしょうか?53ページ目には、中国とベトナムとの戦争一覧が書かれていますが、
徴姉妹と馬援、呂岱と士燮の子供たち(士徽)の戦いは出てきますが、248年の趙嫗の話が出てこずに、次は永安五年(262年)の記述です。中央より左側1~3行目参照。つまりこれは、趙嫗との間に戦争と呼ばれるほど大きな戦いが無かったということを意味しているのではないでしょうか。
そしてベトナムの歴史に関係する中国側の人物が紹介されている88ページ目では、陸胤があげられており正史三国志の記述と同じで説得や、財貨を与えることで平定させたという話になっています。
以上から、趙嫗の反乱は大規模な反乱や戦争では無く、中国(呉王朝)には従わなかったものの、秩序を乱す賊に近い存在感であったのではないかとも考えられます。そしてその抵抗理由は、政治的独立では無く、経済的な理由であったのではないでしょうか?つまり22年前の士徽の乱で失った南方交易における収益の分配です。
それゆえその事情を把握した陸胤は、大きな戦いをすることなく、説得したり財貨を与える=独占してきた交易の利益を一部戻すことで、すぐに平定することができたとも考えられます。
しかし一部の人々は、その妥協案に納得がいかずに山に籠って抵抗した・・・その一人が趙嫗という人物だったのかもしれません。だけど少人数が故に、すぐに鎮圧されてしまった。
そしてその後、数百年に渡って中国の支配下が続き、圧政にも苦しめられた人々は、中国支配に抵抗した趙嫗を民族の英雄として認識していったのではないでしょうか。
ベトナムの切手。民族の英雄Bà Triệu=趙嫗が描かれている
では、なぜ趙嫗の胸の大きさをあえて記述する必要があったのでしょうか?それを知るために、同様の記述をしている中国の記録を探し出しました。
5. なぜ中国の歴史書で胸の大きさを記述したのか?
中国の文献および歴史書(ただし王朝の公式な歴史書、正史ではない)において、趙嫗以外に胸の大きさに言及している2例を見つけました。
前漢の文帝の時代(在位:紀元前180年~紀元前157年)、祭祀のため甘泉へ向かう途中、文帝は「乳長七尺」(前漢時代は、一尺22.50cmなので約160cm)という乳房を持つ女性が水浴びしているのを見つけます。文帝がその胸について質問すると、女性は七番目の馬車に乗っている人が知っていると言いました。その馬車に乗っていた張寛に聞くと、天の祭祀をしっかりやっていない(祭りごとに落ち度がある)と、天がそれを伝える為こういった女性を出現させる・・・と伝えたという話です。
これは巨大な胸の存在を、天からの啓示として扱っていた事例です。なお北堂書鈔は、隋代末期の大業年間(西暦605~618年)に虞世南により作られた類書(字引や百科事典のようなもの)です。なお別の資料では文帝では無く武帝(在位:紀元前141年~紀元前87年)となっています。
そしてもう1つは、洗夫人という人物です。一般的には、中国の南北朝時代に広西省一帯で活躍した女性指導者(西暦522~602年)を指しますが、それより数百年前、秦末期に、中国南部から北部ベトナムにかけて南越国を作った趙陀の時代(紀元前257~紀元前137年)、同じエリアにいた同じ名前の洗夫人について記述されています。
身長は7尺、賢くて機知に富んでいて、3人分の力を持っており、両方の乳房の大きさは二尺以上あり、暑さの中行軍するときは、胸を肩の上においているといった記述です。南越王の趙陀からも信頼され、地元民からも頼りにされたという豪傑のような人物像が紹介されています。
なお太平廣記は、北宋時代の太平興国2~3年(西暦977~978年)にかけて編纂された類書ですが、この部分の出典は、唐王朝の昭宗時代(9世紀末)刘恂によって書かれた「嶺表錄異」を参照したとあります。
洗夫人の話は、趙嫗と場所や時代も近い存在です。以上から次のような推測が考えられるのではないでしょうか?
古代、中国南部からベトナム北部エリアにおいては、女性の場合、優れた人物であることを示すシンボル・身体的な特徴として巨大な胸があり、それは天から啓示を受けた特別な存在であることも表していたという考えです。おそらく、実際にそうであったかどうかは関係なく、あくまでも豪傑である象徴として記述されたのではないでしょうか。
ベトナムで昔、描かれた趙嫗の絵。左右に伸びる緑の部分が巨大な胸。
それがベトナムでも年月を経ることで、中国の影響も受けてこういった考えは廃れていき、近世になってから皇帝や官僚たちが古い中国の文献を見てもなぜ「乳長三尺」と書かれているのか理由が分からず、一方で中国の歴史書には書かれているので無視するわけにもいかずに、苦笑しながら記述した・・・そんなことがあったのではと考えてみましたが、いかがでしょうか?
趙嫗が祀られているĐền Bà Triệu
もちろん上記は、歴史書を元にした私個人の推測でしかありませんが一見、奇異に見えるベトナムの英雄に関する記述も、原文を辿って調べることで様々な歴史の背景が見えてくることを教えてくれます。
6. オマケ:陸胤の全裸の話はどこから出てきたのか?
まずベトナム語の文献ですが、
(訳文)陸胤は慌てて、昼夜を問わず計画を考えた。そして彼の軍隊が全ての服を脱ぎ捨て、趙嫗の馬の先頭に出て、全裸で戦う計画を考えた。それを見た趙嫗は、若い女性として非常に恥ずかしくなり困惑して、怒りもしたがどうしたら良いかわからなかった。そして目をつぶって逃げ出した。
Đinh Gia Thuyếtという作家が書いたNgọn cờ vàng(黄色い旗)という作品で、ハノイで出版されたのは1934年とあります。
さらに古い漢文で書かれたものを探すと、阮朝の第4代嗣徳帝(トゥ・ドゥク)の命令で編纂が始められ1882年に完成した「大南一統志」にありました。
ただ、これが発端なのかはわかりません。
なお趙嫗の胸の大きさは、乳長三尺ではなく乳垂三尺となっていますね(笑)
今後こういう話が織り交ざって、再び趙嫗に関する歴史の記述が書き変わっていくのかもしれません。
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7. 中越関係をベトナム側から見た歴史秘話
1~2分で読める不真面目なのも書いています(笑)