番外編 熱量
私は情で動いている部分があった。人が足りないから、あなたがいると助かるからと。
ここでの助かる=仕事があらかたできて任せられるから楽という考えだ。
雇ってもらっているからとずるずるいたこともあった。そのおかげでやりたいことへの着手も遅れることもあったが、結局は私がいなくてもお店は回るのだ。同じように流されやすい人は特に言いくるめられてずるずる辞めたい仕事をしている人は多いのではないだろうか?日本人は断れない人が多いとよく聞く。私も実際そうだ。
しかしそれでその後の選択をするのは結局自分であり言われたから、大変そうだから、無責任だからと感じる必要はない。寧ろそれは辞められない理由を相手のせいにしている気もする。自分の人生、やりたいことも相手のせいにしてできないというのは少し幼い気もする。
お金の切れ目は縁の切れ目という言葉がある。接客のお仕事をしているなかでたまに来る方や久しぶりにお見かけする人もよく見るがその理由は大抵お金だ。人がお店から足が遠のくと自然の連絡の頻度も少なくなり疎遠になっていく。もちろん長年付き合ってれば仲良くもなるだろうが関係性としては「お客様」と「店員、キャスト」というビジネスの関係で成り立っている。そこを「お金」という綱で繋がっているのが根本である。
非情と言われるかもしれないが実際ツケで飛んで来なくなった人や生活が変わり来れなくなった人を数多く見てきた。
話はだいぶ逸れてしまったが
「情で働くな」
と言われたときに私にとってはなにかが吹っ切れたのいうか開放された気持ちになった。
時代は変わっていく。今では働く側も選ぶ時代だ。昔ながらの考えも大事ではあるが、今の時代に柔軟に対応するのも必要なのではないか。
そこも昔はこうだったという過去のプライドがあるのだろうが、振り返ることは大事かもしれないが捉われることは前に進んでいないと思う。
そんな環境で私自身成長もできなければ、周りも頼り切って堕落しているようにも見えていたので少し距離を置いている。
慣れとは怖いものである。散々私をいびっていた方も他のキャストが消え人がいなくなったときに心配の連絡がきてたりもする。
口を揃えて言われるのがこの人が今一人でやっている、可哀想だという情に訴える文面である。しかしその世界観を作り上げたのも結局は自身なのである。
私は私の人生がある。その人の人生を生きているわけではない。可哀想だから働け、戻れというのはまたおかしな話ではないだろうか。他のキャストも辞めたという話を噂で聞いたが、きっと私より理由は浅はかだろうなと思う。それは仕事をみていて熱量は低いと思ったから。しかしプライドは高い。
何度同じことで注意されても気をつけようという意識がない時点で成長も熱量でさえも差が出てしまう。どんな仕事でも仕事は仕事。自身に熱量と楽しむ感覚がなければ続かない。環境もあるだろう。それを教えてくれた周りには感謝している。まだ成長できるのだから。
きっと私は何かあると言いやすい人間なんだろうなとは思う。シャンパンの注ぎ方にしても間違った知識をお客さんに教え込まれそうになり、私より経験もあるキャストが雑な注ぎ方をしても何も言わない。そんなのもストレスとなっていた。物腰柔らかく人当たりも良いかもしれないが私も芯はぶれない。嫌なものは嫌なのだ。
これから新たな場所で自身が成長できる場所を模索している。もちろんそれを主とするわけではないが経験は宝だと思う。私の考えが正しいわけでもないし幼いと思う方もいるかもしれない。でも、そんな自分を理解できるまで私はいろんな挑戦と経験をしたいのだ。
お仕事の愚痴もありきにはなりましたが、私なりの考えと情で働いていた自分が見えたこと、そんな気づきをここに残して置きたくて想いのままとりあえず書いてみました。明日からまた過去回想に戻す予定です。