ボカロと肉生と愛について
色んな人が色々な街にいて、昨日は長男の喜ばしい話を聞きながら私は尊敬されるような見せ場はなかなかないなぁとか
ちょっと、意固地になったりしがちな今日この頃です
熱心なボカロファンな下の子供達と、たまに電車にのると
AIなのか、入力なのかはわかりませんが人ではないガイダンスやアナウンスの車内や構内の音に
度々出くわして
あれ?綺麗な女の人の声だと思ったら、ボカロだね?!と浅知恵ながら二人に言うと
得意げにどこの会社だよとか(ファンは分かるらしいです)
教えてもらいワクワクします。
人手不足が常だし、人はもう話さなくて楽ちんかなぁと思っていると、遅延や何かのちょっとした変更があったりすると
丁寧に急足な駅員さんや車掌さんかな?の声を聞いて
それは人の声として安心だなぁって
感じたりするものです
たまたまお見かけした記事
@ぜりー さんの呟きで
本当にそうだなぁと感じて思い出しました。
ありがとうございます。
昨日は本当に両親を娘としてみたり、幼少期から幼馴染で結婚した、ひとつの愛を温め合った二人を
最近は認知症やしものせわがうけいれあえない幸せな二人や
許し合えずなぐりあったりしてしまうようになったのが愛の末路なのかなと考えてしまったり
少しでも福祉の提案を受け入れてくれていたらと悔やまれたりしましたが
色々間近でみて私の立場をなくしてみたなら
愛は盲目という言葉がうかびました。
よく、言葉が好きなので、どうしてこの言葉が生まれたのかなぁと
考える習慣がありますが
愛がみえなくなったら、ちがうものになりがちだから
気をつけようという時用の言葉なのかもしれません
だってこの言葉を使う時って
あまりハッピーエンドのイメージがないなぁって思いますから
昨日は雨の中長距離運転したので、いただきもののホタテの出汁の素でお粥をたんまり食べました
ほくほくのままゆっくりしたいと思います。
今日も読んでいただきありがとうございます
ではまた
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