あはれと思ふあはれと思へ


逢坂の関の関守老いにけりあはれと思ふあはれと思へ

前回は藤原清輔の歌の魅力を際立たせるために藤原俊成の歌と対比させ、結果、俊成を貶めるような体裁になってしまった。

その反省を踏まえ、今回は俊成の秀作を取り上げることにした。
こんなところがバランス感覚を気にする私の小市民的な部分で、我ながら姑息な男と反省する。
反省はしても、それを改められない凡愚と自覚している阿呆である。

歌意は単純なもので、久しぶりに逢坂の関を通ってみれば、見知った関守もずいぶん歳を取ったものだ、その姿を哀れに思う、同じように歳を取った私も哀れと思われる歳になってしまった。
と、いささか自虐的ではあるが、簡潔な表現で調べを整えた俊成の技量が際立つ。

関守に対し「あはれと思ふ」と同情し、すぐにそれを我が身に対応させて「あはれと思へ」と反転して、同じ立場で結句させているところが共感を誘う。

俊成の歌の中でも傑出したものと思うのだが、現在に至るまで、それほど評価されているとは思われないのが残念だ。
「五社百首」を奉納した中の一首。
「新古今集」には生涯を通じて72首の歌が採られているにもかかわらず、何故かこの歌は入っていない。
ちなみに、春日、日吉、伊勢、住吉、加茂が五社である。

このとき俊成77歳。
俊成には、おそらく関守も自分と同じような年齢に見えたのだろう。
世は源平争乱のカオスが終結し、身分制度がほぼ確立した平安末期。
この時代に庶民と同じ目線で詠まれた歌は心地よい。

相手を貶めることで優越感を得る人種が増殖する現代に身を置いていると、このような心和む歌はささやかな慰撫となり、本当に救われる。

歴史に名を残した大歌人の中でも俊成は特に長命であり、当時としてはギネス級の91歳で大往生を遂げた。
新古今集時代の歌界最高の指導者としての誇りや生き甲斐や情熱も盛んであったろうし、出家し、確固たる信仰を持ったことで心の平安が訪れたことも作用したか。

歌聖といえば西行だが、その西行と同時代を生きた俊成も、息子の定家同様に、現代ではもっと評価されていい存在だ。
(歌聖は人麻呂もそうだとの声も聞こえて来そうだが、人麻呂はその上をいく歌神である)

西行と俊成。
どちらも篤い信仰あってこその歌人である。
(世間の評価通りに定家も同列に置きたいが、明月記を読むと、個人的には名歌人の印象が薄れてしまう)

私の場合、俊成から連想するのは定家と平忠度。
機会があればぜひ忠度の歌にも触れてみたい。

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