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Petrarcaを読もう! 予備知識編

イタリア文学史上、最も影響力を持った詩人であるペトラルカの詩を少し読んでみるコラムを書いているところです。ところが、書き進めるうちに遅まきながら気がついたのは、日本では、ペトラルカは、詩の解説をする以前の問題としてその人生も時代背景もさほど知られていないのではないかということです。したがって、詩について語る前にまずはペトラルカ登場のコンテクストから語らなければいけない気になってきました。本稿では、そのような考えから、ペトラルカを読むにあたってとりあえず理解しておかなければならない周辺の話をしようと思います。
実際の詩を読み解くのは別稿に譲りますのでしばらくお待ちを。

時代背景について(その1)


 ご存知のように西暦476年に西ローマ帝国が崩壊し、西ヨーロッパは極度の混乱に陥り、かつてのローマ帝国の栄光も文化遺産も一旦は完全になくなってしまいました。いわゆる中世の始まりです。以前とは違って中世全体をヒトカラゲにして「暗黒の時代」などと呼ぶ人はもはやだれもいませんが、それでもこの中世初期には文化の断絶があったことは議論の余地のないところです。
 しかしその後数世紀を経て、ようやく西ヨーロッパの文化も復活の兆しを見せます。現在のフランスを中心とした西ヨーロッパのかなり広範な地域を統一したカール1世(シャルルマーニュ:西暦800年のクリスマスにローマ皇帝として戴冠した出来事はあまりに有名ですね)のカロリング朝宮廷において、いわゆるカロリング・ルネサンスが花開いたのがその端緒でした。
 その中世最初の文芸復興を象徴するのが騎士道文学と言われるジャンルです。一般には封建領主の傭兵が戦地(主に対イスラム教徒)に赴く長い旅路や自らの雇用主に相当する封建領主の奥さんへの叶わぬ恋を歌ったような叙事詩です。そのなかでいちばん有名なのはLa Chanson de Roland(シャンソン・ド・ローラン)かと思います。それ以外にもワグナーのオペラになったので人口に膾炙している「ニーベルンゲンの歌」ももともとは同じジャンル・同じ成立時期のものです。
 前者は古フランス語、後者も中高ドイツ語(要するに古いドイツ語)で書かれています。つまり当時の文芸の中心は(政治の中心と同様に)フランスか、せいぜいドイツであり、中世初期の混乱がいまだ収まらないイタリアは文芸復興の最初の電車には完全に乗り遅れました。ローマ帝国の時代には政治・経済・文化の中心が、中世初期には混乱の中心となってしまったのは皮肉なことですが、ある意味よくある話なのかもしれません。


 つづく10~12世紀は、ヨーロッパ全般に経済成長が著しく、人口も大幅に増え、かなり「暗黒」期から脱した時代でした。政治的にもキリスト教世界の最高権力である教皇と、世俗勢力の最高峰である神聖ローマ皇帝がうまく連携しあい、その下に封建領主たちが連なるという安定した政治体制が確立されていました。
 とりわけ12世紀はアラブや東ローマ帝国経由で古代のラテン語・ギリシャ語の文献が大量に流入したのをきっかけとして「12世紀ルネッサンス」と呼ばれるように学術・文化の復興が本格化した時代です。
 教会はますます学問の守護神として栄えました(今なら週刊誌の格好の特ダネを提供したであろうエロイーズとの恋愛沙汰で有名なアベラールはスコラ哲学の「超人気講師」・スーパースターで、その授業を聞くために若い聖職者たちが行列を作ったといわれるほどです)。そして他方ではイタリアのボローニャ大学やフランスのパリ大学のような世界最古の大学が誕生しました。ラテン語での公文書を読み書きできる者には出世が約束されていたせいです。
 その時期に文芸方面での主役は南フランス(プロヴァンスやラングドック)を舞台に活躍した吟遊詩人(Troubadeurトロバドゥール)たちでした。「吟遊」という名前を聞くと、なんとなく旅をしながら詩を読むイメージかも知れませんが、そうではなく宮廷にたむろする宮廷詩人です。彼らの詩作の共通言語は南フランスの言葉であるオック語です。


 やや遅れてようやくこの中世盛期の成長期のおこぼれをイタリア北部の地域も享受することになります。それは、コムーネといわれる自治性の高い小都市たちの誕生です。フィレンツェとかヴェネツィアとかミラノといった、農村ではなく商業・手工業を基盤として経済成長をし、封建領主たちから自治を獲得し、内部では弁護士、公証人といったいわば文民による統治が行われていたような小国家のことです。
 こうした自治都市はなにもイタリアの専売特許というわけではなく、ほかにも「ハンザ同盟」で有名な北ドイツのリューベックのような都市などもあったわけですが、経済力に関していえばイタリアのコムーネの圧勝だったでしょう。
 コムーネは12世紀から14世紀のはじめくらいまでは繁栄と自治を謳歌します。コムーネ制圧を試みたバルバロッサと呼ばれるフリードリッヒ1世神聖ローマ皇帝やその後しばらくして即位した名君のほまれ高いフリードリッヒ2世をもはねつけ、自治を守ります。コムーネでの政治は比較的民意が反映される民主的色彩の強いものであり、その住民たちも自らの街に強い誇りを抱き、そうした点で近代的な市民像に近いものだったと考えられます。
 かくの如きコムーネのひとつであるフィレンツェを舞台にした文芸運動がdolce stil novo「清新体」と言われる詩人たちの活動でした。
 その活動の中心命題は、まだまだ同時代のフランス語と比較するのもおこがましいほど国語としての体をなしていないフィレンツェ方言を駆使して、文学の名に値する詩を作るということであったと考えられます。一種の国語運動であったとも言えるのではないでしょうか。
 と同時に、その詩は高踏的で、そのテーマはほとんど観念的といってよいほど抽象化された女性への賛美でした(ダンテにおけるベアトリーチェ、ペトラルカにおけるラウラ賛美は明確にその流れを引き継ぐものです)。
 dolce stil novoの代表選手のひとりはダンテの師匠であるカヴァルカンティです。ダンテ自身も、ダンテの主著である神曲のイメージからすると女性賛美のdolce stil nuovo の一詩人であるようには見えないかもしれませんが、初期にはまさにベアトリーチェ賛美の歌を沢山表しており、その時期においてはダンテがstilnovista(この運動の担い手の詩人たちをこう呼ぶのですが)であったことは疑いを容れません。

時代背景について(その2)

ところが14世紀(つまり1300年代)になるといきなりまた危機の時代に突入します。
 一番の根源は、長期的な気候変動でこの時期、凶作が続いたということがあるようです。それに追い打ちをかけたのは、前述のように商業・手工業・交易が急速に発展し、それに引き寄せられ農村人口が都市に流入し農村が荒廃してしまったことです。
 そしてそうした経済的背景に付け加えて、前述のようにタッグを組んでヨーロッパ世界を統治していた教皇と皇帝が両者ともに一気に弱体化して政治的に不安定になったことが政治的な要因です。
 これについては少し説明が必要でしょう。前述のイタリア北部のコムーネだけではなく、ヨーロッパ全般に独立性の高い国家が成立してきたことがそれまで覇権を握っていた両者の弱体化の原因です。その国家とは何よりもフランスであり、そしてイギリスです。
 そもそも神聖ローマ帝国という名前は、「神聖」つまりキリスト教に助けてもらいながら、かつての「ローマ帝国」の再興を目指しそれに比肩する広大な版図をもつ帝国ということです。ところがその帝国のなかでいろいろな国家やコムーネが次々と分離独立してしまうという格好になったわけです。
 こともあろうにローマにいた教皇自身もフランス王フィリップ美男王に捉えられて南仏のアヴィニョンに連れてこられてしまいます。有名な「アヴィニョンの捕囚」と呼ばれる事件です(後述することになりますが、ペトラルカの父は教皇庁のスタッフの一員で、このとき教皇と一緒に一家でアヴィニョンに引っ越してくることになります。まさにペトラルカ自身もこの14世紀の混乱の只中にいたわけです)。新興国家の王にさらわれて捕虜になってしまったわけですから教皇の威厳も何もあったものではありません。
 他方、皇帝のほうも「大空位時代」といって13世紀の半ばから皇帝がいない時代が数十年続いてしまうほどの弱体ぶりでした。
 このようにヨーロッパ全般に混乱の時代だったわけですが、それに呼応して、それまで自由と繁栄を謳歌していたイタリアのコムーネの状況も変容します。まずはコムーネ内部の政治体制に関して寡頭制が進行します。割に民主的な手段で選出されたはずの政治家が権力を独占するといういつの時代にも見受けられるプロセスからそれは起こってきます。ミラノのヴィスコンティ家とかフェッラーラのエステ家とか、マントヴァのゴンツァガ家とかどこかで名前を聞いたことのある一族はだいたいそうしたプロセスでコムーネの僭主となった家柄です(フィレンツェのメディチ家はやや遅れての登場ですが、その権力への道筋は大同小異です)。
 当然、民衆は反発し、反乱も頻発しました。また、有力な家柄同士が血みどろの闘いを繰り広げることもありました。一つのコムーネの中で対立が生まれると、すでに弱体化したとはいえ、戦いの大義名分を求めて片方が教皇派を名乗るともう片方は皇帝派を名乗るということがお決まりのパターンでした。
 ダンテはフィレンツェで教皇派に属してたけれどもそれが原因で後にフィレンツェから追放されたというエピソードも有名ですし、シェイクスピアの戯曲で有名なロメオとジュリエットの悲恋も、それぞれの家族がヴェローナでそれぞれ教皇派と皇帝派に別れて反目し合っていたことが原因です。まさにあらゆるコムーネで分裂と対立が起こっていたことがわかります。
 そして「危機の1300年代」の最後の一撃はペストの大流行です。感染を恐れて田舎に疎開した人々が、そこで暇を持て余して大喜利大会のように順番に物語る小話をまとめたのがボッカッチョのデカメロンです。そしてペトラルカにとっての偶像的な女性ラウラもこのペストの流行で病死しそれがペトラルカがラウラを歌った詩集Canzoniereを発表するきっかけにもなりました。
 
 ここまでですでに名前が挙がった1300年代に活躍するイタリア文学の創始者と呼ばれる三人(ダンテ・ペトラルカ・ボッカッチョ)が登場する歴史的な文脈は以上のとおりです。まさにイタリア文学を作った3人であると同時に、彼らについては「危機の13世紀」という歴史的文脈抜きには語れないのがおわかりいただけると思います。
 最後に一言付け加えるとすると、この時代に対する評価は様々です。まさに「危機の時代」と総括する人もいれば、中世を支配してきたいろいろな枠組みが壊されてきたという点でむしろ次の輝かしいルネッサンスの世紀である15世紀始まりであったと肯定的に捉える人もいるようです。

 

偉大なるTrecentisti、そしてペトラルカ

 時代区分としてわれわれは「〜世紀」という単位をよく使いますが、イタリアでは「〜年代」という言い方のほうが普通です。たとえば「14世紀」≒「1300年代」であるわけですが、さらに上一桁は省略し「300年代」のように呼称するのが一般的です。300はイタリア語ではtrecento(トレチェント)、そしてそのまま1300年代を意味します。
 この300年代に生きた活躍した人をTrecentisti(トレチェンティスティ)と呼ぶのですが、イタリアでは子どもでもTrecentistiといえば、すぐに3人の名前を挙げるでしょう。それは前述のダンテ・ペトラルカ・ボッカッチョです。ダンテはこの中で一番年上で1265年生れ、ペトラルカは1304年生れ、ボッカッチョは1313年生れです。
 伝統的にはダンテは中世人(生まれた年をみても厳密にはtrecentistaと言ってよいかどうかビミョウですし)、ペトラルカはちょうど中世からルネッサンスの過渡期、ボッカッチョは紛れもないルネッサンス人と分類されてきました。
 そしてそれは単なる生まれた年代の差ということもありますが、その著作やそこから見て取れる彼らの思想に関する評価でもあります。ダンテの主著の「神曲」の中に描かれているのは紛れもないスコラ哲学的神学世界です。すべての悩みや迷いの究極的な救済はその神学的な思弁の中に帰納法的に答えがあることが最初から了解されています。
 逆にボッカッチョは完全なルネッサンス人です。前例がないわけではないのですが、キリスト教と全く無縁な世俗世界を、しかも俗語(つまりイタリア語)の散文で描くなどということは発想として中世のものではありません。
 問題はその両者の真ん中の世代であるペトラルカへの評価です。こんな議論は不毛なものだと誰もが悟りつつも、それでもペトラルカは中世の最後の偉人なのか、ルネッサンス人の先駆者であるとみなすべきなのかの議論がずっと続いています。
 両者の言い分を簡単に整理してみることはペトラルカの位置を理解することになるでしょうから少しまとめます。
 中世人であるという根拠から。まずペトラルカは非常に宗教的です。前述のアヴィニョンの捕囚のときに家族で教皇に付き添ってアヴィニョンに引っ越したくらいですから。そして主著である歌集Canzoniereこそイタリア語で書かれていますが、それ以外の殆どの著作はラテン語であり、本人も著作はラテン語で行われるべき旨を公言しています。またその歌集の中心的な命題は偶像化された恋人ラウラ賛美であり、少なくともそうした外見からは中世文学の強い伝統(前述のトロバドゥールやドルチェスティルヌォーヴォの)が感じられます。
 逆にルネッサンスの先駆者であるという主張の論拠です。まず第一にペトラルカは文学者である以前に文献学者でした。意外なほどのフットワークの軽さを活かしてヨーロッパ各地の修道院などに埋もれた古文書を漁りに出かけ実際にキケロなど重要な未発見の文献を多く発見しています。ご存知のようにルネッサンス自体がギリシャ・ラテンの文芸の再発見を基盤にした文芸復興であるわけですから、文献学者としての功績自体ですでにルネッサンス人の資格は十分です。けれどももっと大切なのは著作への姿勢です。たしかに宗教人であり、dolce stil novoの流れを汲んだ詩作を残したかもしれませんが、彼は終始、詩作の独立性について主張しました。詩はスコラ哲学を表現するための手段でもなければ、dolce stil novoのようなネオプラトニズム的思想を表現するための手段でもなく、それ自体が独立したものでなければいけない、という主張です。極めて近代的な考え方です。
 そして一番大きいのは、著作と筆者との関係性です。Trecentisti3人の中で、ペトラルカについてはその人生が非常に詳細に知られています。それは自分の著作の中でペトラルカ自身が自分の人生について詳細に述べていてそれが第一次資料になっているからです。日本の私小説になぞらえるのも誤解を生むのでしょうが、日本の近代文学の私小説作家のような自意識がそこにはあります。
 そして詩作の中でLauraを賛美しているようでいて、実は彼の関心は徹頭徹尾自分にあります。自分の悩みを赤裸々に述べ立てるのが彼の主眼でした(アウグスティヌスの「告白」に強い影響をうけたと自分でも書いていますが実際その通りなのでしょう)。たしかにダンテも森の中で自分自身が迷うところから「神曲」を始めています。作中に自分が登場するところも、その自分が迷うところも似ているのですが、ダンテの迷いはすでに神学の中にその答えが見出されます。それに対してペトラルカの迷いには答えはありません。悩むこと自体を詩のテーマとしているのです。なんといってもここが一番近代的な匂いを感じさせるところです。
 もう一度、Trecentisti3人の生まれた年を見ていただきたいのですが、ペトラルカとボッカッチョはかなり歳が近いのがわかります。実際二人は面識もあるし、文通という形で長らく友情も育んでいました。それに対して、ダンテとペトラルカの生誕年には40年もの開きがあるのがわかります。この中世からルネッサンスへ移行する変化の時代における約半世紀の違いはかなり大きなものなのかもしれません。その間に、ダンテの詩作への批判(詩を哲学の表現方法として使っているではないか、というもの)をする者があったり、ボッカッチョは史上始めてダンテの神曲の注解講義を行うのですが、すでに講義が必要なほどその神学的内容がわかりにくいものになったりしているところをみても、ここに世代の断絶を感じることは可能であるように思います。

 

受容

 さて、翻って彼らの日本での受容です。この三人の中でペトラルカはダントツで知られていない作家であるように思います。その理由は簡単で、ペトラルカは抒情詩作家であり、その作品の美点は音楽的な美しさにあり、翻訳するとほとんどそれが失われてしまうということです。
 それに対して、ボッカッチョの主著である「デカメロン」はまず散文で書かれている上に、まさにルネッサンス的に世俗的かつ部分的には猥雑ですらあり、現代人のわれわれにとっても笑いながら読める小噺集です。パゾリーニを始め何度も映画化されていますし、たしかジャニーズのアイドル歌手の歌詞にも登場したのではなかったでしょうか。
 またダンテの主著「神曲」は、極めて難解な詩であり、中世のキリスト教世界観を色濃く反映したもので、普通に考えればとても容易く受容されるものではないにも拘らず、詩言語としての構築性を捨象してもなおかつ残る凄まじい物語性の故に翻訳可能な作品であり続けたのだと思います。
 また第二次大戦のなかで必死に続けられた東大の矢内原忠雄教授の「神曲講義」に代表されるように、キリスト教理解やスコラ哲学理解という観点からもその読解がなされてきたという側面もあったでしょう。
 それに対してペトラルカはイタリア国外では本当に知られていない作家になってしまっていると感じられます。そんなことが、私が本稿を書こうと思った一つの動機でもあります。
 しかし、イタリアの文学史のなかでの影響力という面から見ると、ペトラルカの影響は他の二人のそれに決して見劣りするようなものではなく、むしろ無数のエピゴーネンを生んだという点では一番影響力を持ったと言っても過言ではないでしょう。絵画の世界に日本語の「マンネリ」の語源ともなったマニエリスムと呼ばれる芸術の時代があったのは有名です。ルネッサンスに続く時代の芸術家たちがルネッサンスを継承した芸術作品を作り出そうとするものの、ルネッサンス芸術の持つ独創性や勢いには到底匹敵するものが作り出せず、それらの模倣に堕してしまった時代です。イタリア文学でも似たようなことが起こりました。「ペトラルキズモ」と呼ばれる時代があったのです。ペトラルカの革新性に衝撃を受けてそれを模倣するも、結局ただの模倣から抜け出すことができない時代が数百年続いたのです。1700年代にレオパルディというペトラルカに匹敵する天才が自由旋律の詩を書くまでの少なくとも300年間はイタリアの詩人たちはペトラルカの呪縛から自らを開放することができませんでした。それほど強い影響力を保ったのです。
 その影響力の中でもっとも象徴的なのはソネットと呼ばれる詩形態です。1行11音節からなり、4+4+3+3=14行からなる詩のことなのですが、これを完成させたのはペトラルカでした。ソネットを発明したのは彼ではないのですが、ペトラルカはこれを得意とし、その詩作の完成度の高さのゆえに、イタリア語の抒情詩の範となったのです。
 そしてその影響は前述のペトラルキズモと呼ばれるイタリア国内のエピゴーネンへのそれにとどまるものではありませんでした。シェイクスピアは多くの戯曲の他にソネットを数多く残していますが、彼をインスパイアしたのもペトラルカのソネットでした。

予定よりだいぶ長くなったので、ここまでにします。実際の詩作を読むのは少しお待ち下さい。
 
 
 
 




 

 
 

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