包囲された街、トンネルが生命線となる
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ(BiH)の首都サラエボ市からこんにちは!お元気ですか?Zdravo, kako si?
日曜日、ミュージアムへ行こうとしたら途中ガッツリ渋滞にはまり身動きがとれなくなりました。
サラエボマラソンの開催日でした!(マラソン大会が多い)
うっかり車で出掛けてしまいました。車両通行止めなど迂回しながらやっとの思いで帰宅したら自宅前の道が完全に封鎖されていて1ミリも車の進行を警察に許してもらえず、公共駐車場に仕方なくパークしました。多大なロスタイムと無駄なパーキング代・・・。お出かけ前は交通情報をチェックして出かけないといけませんね。
この日の目的地はTunnel of Hopeでしたが到達不可。日を改めて訪れました。
Tunnel of Hope:希望のトンネル
1425日間のサラエボ包囲戦
ボスニア紛争の真っ只中1992年~1996年のサラエボ包囲戦中に建設されたこのトンネルは市内のボスニア政府支配地域と包囲地域を結ぶ生命線として機能しました。
スルプスカ共和国軍(VRS)によって完全に遮断されたサラエボ市と国連が管理するサラエボ空港の反対側にあるボスニア人が保有する領土を結ぶためにボスニア軍によってトンネルが建設されました。「もしこのトンネルが無かったら」博物館見学中に恐ろしくなりました。
参考URL
BBC News | EUROPE | Sarajevo's tunnel of hope
我々訪問者は約20メートルのトンネルを実際通ることができますが、オリジナルは全長800メートルです。こんな短い距離すら地上で横断することは不可能でした。動くものは全て標的となっていた凄惨な包囲戦では多くの市民が射殺されました。
絶望的な中で発案されたD-Bトンネルは秘密裏にしかも手作業で掘削されました。絶え間ない砲撃の中、光源は"Kandilo"と呼ばれる植物油に満たされた鍋から火を灯して掘り進めます。気象条件が厳しい状況下で作業は難航しながら、そして除去した土など敵側に見つからないように苦労した様子がオーディオガイド、解説書で伺い知れます。
包囲後800日の夜トンネルが完成
サラエボ市を包囲された市民たちは過酷な状況に置かれました。そして飛行場の滑走路の下にトンネルを作るというアイデアから彼らに出口を与えました。食料、戦争物資、人道援助がサラエボ市内に入ってくることを可能にしたのです。様々な困難を乗り越えトンネルを使用できるようになるまで6か月以上かかりました。1993年7月20日午後9時頃、D地点とB地点の作業員がとうとう出会うことができました。
博物館ではドキュメンタリー映像、戦争写真、軍事装備、旗、軍服などのアーカイブ資料も展示されています。
サラエボトンネルはサラエボ包囲の象徴的な存在となり、市民の生活を支える重要な役割を果たしました。そして現在では歴史と戦争の記憶を伝える場所となっています。訪れる人々にとってトンネルは戦争の悲劇と人々の困難な状況を物語る重要な史跡です。
Tunnel of Hopeへ行く最中、道に迷ってしまいました。
おじいさんに助けられる
屋外でコーヒーを飲みながらノンビリ友達とおしゃべりしていたおじいさんが車内で地図アプリを見て困っている私に声を掛けて下さり、道案内をしてくれました。目的地に着いた途端おじいさんと私は抱き合って大喜びをしました。心からの感謝を伝え、又、駐車場で働く男の子たちがおじいさんをヒーロー視!その親切ぶりを称えていました。おじいさんも過去トンネルに関わった人でしょう。ボスニアの人々は大変温かく愛情深い人が多い国です。外国人の私に嫌な顔をせずに言葉が通じなくても大切にしてくれます。毎日のように皆さんの親切に触れており感謝が尽きません。