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非人間を創造的な主体として、書いていく--『マンガ版「マルチスピーシーズ人類学」奥野克己・シンジルト[編]MOSA[マンガ]』(以文社,2021年)書評
マルチスピーシーズ(multispecies)とは複数種、複数の生物種が共生する状況を示す言葉で、文化人類学では最も新しい研究ジャンルの一つになっているそうです。
ハイブリッド総合書店「honto」で検索したところ、 “マルチスピーシーズ” でヒットする関連書籍はたったの14冊。なかでも本書『マンガ版マルチスピーシーズ人類学』は異色で、編者の奥野克己さん、シンジルトさんなど8人の人類学者が書いた文章と、マンガ家MOSAさんが描いた小編マンガのコラボレーションが特色です。
人間だけが主人公の物語世界に閉じている、わたしたち
それにしても、“文化人類学”では関連書籍が3,206件もヒットするのに、“マルチスピーシーズ“の14冊は少なすぎませんか。
地球に複数の生物種が暮らしていることは誰もが認めるでしょうに、それを日々語り合い、考え、表現するための言葉や概念って、そういやほとんど見当たらなかった気がします。
今は20世紀なかば頃に始まったとされる“人新世=人類の時代”。その只中で多くの人は“人間を中心に思考するという時代の前提”を受け入れて、眼前の日々を必死に生き抜いてきた。そこで役に立たない言葉や概念は使われなくなるし流通もしなくなる。だからマルチスピーシーズという言葉を初めて聞いたとき、“古くて新しい感じ” がしたんだと思いました。
人新世の人間中心主義や人間例外主義や、それにもとづく自然環境の大規模な搾取は、さまざまな環境危機を招いたとされています。
この問題について、マルチスピーシーズ人類学のアプローチは独特です。たとえば環境倫理学やSDGsのように、自己批判と行動変容のセットによって環境問題の解決を目指すのとはちょっと違います。もっと根幹に光をあてて、この世界と人間が、”人間だけが主人公の物語世界に閉じてしまっている現状”を、人々に気づかせようとするのです。
本書の序論を執筆した奥野克己さんは、マルチスピーシーズ人類学のユニークさをひとことで、次のように表しています。
マルチスピーシーズ人類学は、地球の環境危機に際して、危機を救うための代替物を探すためのプロジェクトではない。
それは、そのような近代以降の語り口の傾向に疑問を投げかけながら、人間と多種の共同体との結びつきに焦点をあてて考え、書いていくためのプロジェクトである。
【序論】非人間を創造的な主体として“書く”こと
「書く」という行為には、人々が「人新世」の常識とは『別のしかたで考える』きっかけをつくる役割があります。
『別のしかたで考えて、書く』ことの必要性を提唱したのが環境哲学・エコフェミニズムの研究者、故ヴァル・プラムウッドでした。
現代世界には、精神的な性質は人間だけに限定されて用いられるべきだとするデカルト的な前提がある。
そのために、動物や虫や人工物などの非人間に精神があるように語るのはとてもおかしなことであるとされるが、デカルト的な前提とは別のしかたで考えて、書くことができる作家は、私たちに別の考え方をさせてくれる可能性を有している[Plumwood 2009: 127]。
プラムウッドは、『非人間を創造的な主体として』書かれた詩や文学も『別のしかたで考えて、書く』実践の一つだと捉えていて、その精神はマルチスピーシーズ人類学へと受け継がれました。
人類学者が調査地に長期滞在し、現地の暮らしを実際に体験することを“フィールドワーク”、それにもとづいて書く文章を「民族誌」というそうですが、マルチスピーシーズ人類学では、学術的な体裁よりも、どのような視座から書かれたのかが重要になるようです。
奥野さんはさまざまな学者たちの言葉をひきながら、マルチスピーシーズ人類学の研究の起点には『最も侵略的な単一の生物種であるヒトから、行為主体性を持つ多種への視点移動』があったといい、次のようにまとめています。
(……)マルチスピーシーズ人類学は、捕食者と被捕食者、寄生虫と宿主、研究者と研究対象、共生するパートナーたち、無関心な隣人たちなどのダイナミズムを含め、「一対一」関係以上の、複数者たちの絡まり合った諸関係をつうじて互いを存在させるような、行為主体たちの「群れ」に焦点を当てる[van Dooren, Kirksey and Münster 2016:3]。
多種の「絡まり合い(entanglement)」が、マルチスピーシーズ人類学の最重要キーワードのひとつである。
つまり、人間という単一種から複数種へ、「一対一」の関係から絡まり合った諸関係へという『視点移動』が、『別のしかたで考えて、書く』入り口となり、これがマルチスピーシーズ人類学の原点にあるわけです。
本編のマンガを読むとわかりますが、複数種には非人間が含まれ、非人間には人間の目に見えない”霊”や“妖術”などの非生物も含まれてきます。
読者が人間だけの視座にとどまり、自然/人間のように境界線を引き区別して考えているうちは、本書から受け取れるものは少なくなります。読者はこれまでの常識をいかに取り払い、物語をそのままに受け取ることができるのか、試されていると言えるでしょう。
【本編】マルチスピーシーズな8つの物語
本書は全337ページのうち約4割がマンガです。マンガ家MOSAさんが、8人の人類学者の文章や民族誌をもとに描いた各16ページのマンガが本編の軸になっています。
各物語のタイトルと解説した人類学者名(マンガはすべてMOSA氏)を紹介し、つづいて読んだ感想を簡単に記しておきます。
1.豊穣を占うバンバラム(宮本万里)
【解説】カエルがつなぐ山と人---捧げられる<静寂>
2.天寿を全うする家畜たち(シンジルト)
【解説】ヤンが統合する世界---草原、牧畜民、家畜
3.語り合うカスカと動物霊(山口未花子)
【解説】動物との対話---ユーコンと北海道での狩猟を通して
4.文化キャンプと古老たちの教え(近藤祉秋)
【解説】「ヌニ」が教えてくれたこと---内陸アラスカにおける狩猟・神話・身体
5.ブタを探して(近藤宏)
【解説】支配から逃れる運動線
6.富を生み出すヤマアラシの胃石(奥野克己)
【解説】サラワクの森とマレー半島の都市のマルチスピーシーズ/マルチサイテッド民族誌
7.人体の棲まうマラリア原虫/ロア糸状虫(大石高典)
【解説】二種の蟲から学んだこと---ホームとフィールドを超えて
8.金華山「殺猿事件」の顛末(島田将喜)
【解説】あるサルの死を理解するということ---義人主義の誘惑を乗り越える「サル化」した身体
感想:マンガと解説を読んでひとこと
1.豊穣を占うバンバラム
中央ブータンのとある山村では、年々に現れるカエルの色から作物の出来を占う。山の神々がカエルに宿り、年に一度だけ奥山と集落との“境域”まで降りてくると考えられている。マンガでは、村の少年がぽかんと口を開け、言葉少なに事の次第を見守っている。初めて儀式を見るかのようだ。本書の最初にこの作品をもってきたのは、読者も少年になり、そこに居るように観る必要があるからでは。
“境域”と聞いて浮かんだのは、人間が森林を侵食したせいで居場所を失った獣が人里へ降りてくる様子だ。TVのニュースでよく観る光景。それとは違う穏やかな営みがこの物語では描かれ、ステレオタイプではない多種の営みの波際としての境域がリビルドされる。
2.天寿を全うする家畜たち
内陸アジアの牧畜民は、ある儀礼をうけた特別な家畜を屠らない。ワンルームの移動式住居で儀礼が行われる様子が描かれるが、選別したヒツジに僧侶が読経を捧げる間じゅう、食事の支度が続き、携帯電話が鳴り、赤ん坊が鳴く。その混沌が面白い。
儀礼の印にリボンが巻かれたヒツジは、もう人間の意志でどうにかすることはできない。この選ばれたヒツジ=“個”が生き永らえるのは、家畜のヒツジたち=”種”全体のために捧げられたからではない。儀礼は信仰心や罪滅ぼしからくるのではないという。“儀礼とはこういうもの”というわたしの思い込みは、実に頼りないものだった。
3.語り合うカスカと動物霊
カナダ・ユーコン準州には、動物霊と話す狩猟採集民族がいる。狩られる動物が夢で自らの居場所を教えてくれたり、実際にその場所で狩猟者を待っていたりするという。
印象的だったのは、解説者の狩猟者としての言葉。『動物と一番通じ合えたと感じる瞬間は、やはり動物が獲れた時だ。』このような感覚は、普段から森に入り耳を澄まし、動物に気を配るなかで、『脱人間化し、動物になる』ことで得られるらしい。ギリギリ人間でありながら動物との間で中吊りにされたような状態にとどまる狩猟者。それは人間/動物という二元論の脱構築だ。思いがけず現代思想とマルチスピーシーズ人類学とが接続した。
4.文化キャンプと古老たちの教え
米国のアラスカ先住民村落では、狩猟などの生業と食文化を古老から若者へと伝承する“文化キャンプ”がある。古老の口からは、キャンプで遭遇した動物や出来事についての“神話”や“伝統的知識”が語り伝えられる。直接経験しなかった出来事については長々と語られることはない。それは忘れていた昔話や廃れた生業技術ではなく、“今”を『生き残り続けることを可能にする技芸』を伝承するためだという。切実だ。
こちらは映像などで伝統文化の中に近代の生活様式が混ざっているのを見て、勝手に残念な気持ちになっていたのではないか。そこには身体がない。自分の身体を通じて経験し考えるなかで、“神話”や“伝統”は更新されていく。
5.ブタを探して
植民地支配下時のアメリカ大陸から逃げ延び、大陸と南米のつなぎ目パナマ東部で暮らし始めた人々がいる。ある先住民はブタを食べる・売るために飼育する。ブタたちは自力でも食料調達できる環境に置かれていて、逃走する主体となる。逃げたブタを追って森の奥へ進むと、ブタを捕食する動物やほかの民族と出会い、それぞれの生き様が激突する。
解説に『支配から逃れる運動線』をマンガ民族誌で描きたかったとあるが、単純に面白かった。ロードムービーのようだが、登場生物はすべて行為主体性を持っていて思い通りには動かない。その不穏さが良い。
また、史実や実体験や伝承や神話などが入り混じり、現実/フィクション、現在/過去などの区分があいまいな調査データを、人類学者がどのように扱うのか、その一端もうかがえた。
6.富を生み出すヤマアラシの胃石
ボルネオ島サラワク州の森林は数十年間にわたり伐採され、裸地になり、動物は去った。裸地がアブラヤシのプランテーションに変わると、動物は戻ってきて、落ちた実を食べ、こんどは農薬にさらされる。森に半定住する民族プナンも環境の変化により、狩猟や漁撈のしかたを変化させてきた。
ヤマアラシの腹から見つかる胃石は高値で売買され、海を渡り、漢方薬として人に摂取される。プナンは、獲れたヤマアラシから得た胃石を大金に変え、車に変え、また狩猟や漁撈のしかたを変化させている。
テキストを読んでいたら、ふっと何かが香るように、多種の営みの連綿とした絡まり合いが生々しく感じられた。
7.人体の棲まうマラリア原虫/ロア糸状虫
熱帯アフリカで調査していた文化人類学者がマラリアを発症する。マラリア原虫が指先から体の中心へ、そして脳へと増殖するに従って、ぶるぶると震える身体が末端から仮死していく実体験が描かれる。ほかにも、ロア・ロアという糸状虫の宿主となり、駆除しないまま数年間も過ごした経験も語られる。
人類学者の“身体”は、調査地での『フィールドワークを経て変化し、更新されていく』という。たとえば体内の寄生虫の存在を身体感覚としてつかむと、いままで見えていなかったものも実感として見えるようになるという。変化が避けられない『不完全で外に開かれた身体のありようそのもの』が、『窮屈な二文法』を超えていくきっかけになり得る点が印象的だ。
8.金華山「殺猿事件」の顛末
宮城県にある無人島で、複数の群れからなる計250頭のニホンザルの暮らしを調査していた研究者は、一匹の猿がほかの猿たちに攻撃され、結果、死に至る様子を目撃する。それらの猿をよく知る研究者だからこそ、裏切られたような気持ちになるが、気を取り直し、目の前の他者やその世界を理解しようと努めるプロセスがマンガに描かれる。
解説では『擬人主義の誘惑』について解説される。わたしは普段から動植物の安易な擬人化を好まないが、関わりを持つ動植物を憐れむ気持ちがどうにも抑えられない。結局は強い『擬人主義』に囚われているのだと自認している。そんな自分自身を変化させたいという気持ちで、この物語の顛末を興味深く読んだ。
『実生活の不可量部分』を書くということ
序論に奥野さんが書いていますが、人間は自然や動物を目の前にしたとき、ついつい『他の生物を単なるシンボル、資源、あるいは人間の生の背景として見る』ことをやってしまいます。マルチスピーシーズ人類学者のフィールドワークや「民族誌」では、この視点が慎重に避けられます。
その代わりに重要視されるのが、『実生活の不可量部分(imponderabilia)』です。「不可量部分」とは何か、文化人類学者のラニスラウ・マリノフスキの説明は次のようになります。
平日のありふれた出来事、身じたく、料理や食事の作法、村の焚火の回りでの社交生活や会話の調子、人々のあいだの強い敵意や友情、共感や嫌悪、個人的な虚栄と野心とが個人の行動に現れ、彼の周囲の人々にどのような気持ちの反応を与えるかという、微妙な、しかし、とりちがえのない現象---などのこまごましたことが、これに属する[マリノフスキ2010:56]。
なぜマルチスピーシーズでは「不可量部分」を書くことにこだわるのでしょうか。
それは、ありふれた日々が“生きること”そのものであり、「不可量部分」を注視することは、人類学者ティム・インゴルドが言うように『他者を真剣に受け取る』ためには不可欠だから、とひとまずは解釈しました。
(『実生活の不可量部分』を書くことについての詳細は、本書で言及されているティム・インゴルドの本を読んでみようと思います。)
本書が「マンガ版」を目指したのも、文字で表現しにくい「不可量部分」を表現するのはマンガが向いていると考えたからだそうです。
あとがきで編者の一人シンジルトさんは、8つのマンガのネーム作成について『MOSAの提案の合理性は、まさにその「簡略化」にあった』と書いています。MOSAさんがなにを描いてなにを描かなかったのか、読者も『非人間を創造的な主体として書く』立場になってマンガの狙いを考えつつ読むと、本編の面白みが増すでしょう。
まとめの感想
近年、マルチスピーシーズという概念が前景化してきた背景には、深刻化する環境問題とそれに対する人々の危機感があります。それはそうとしてマルチスピーシーズ人類学は、さらに根本的な問いに取り組むきっかけをくれます。
私感ですが、環境危機に限っていえば、『別のしかたで考える』方法に環境倫理学などもあると思います。ただ環境倫理学では、自然と人間のあいだには明確な線引きがあり、自然/人間の二項対立の大前提は崩さずに議論がされてきたように感じます。
また、近年のSDGs(持続可能な開発目標)などは、人間による開発を大前提により良いアクションを起こすことに集中しています。環境倫理学の葛藤に比べればわかりやすいのですが、なんだか人間の愚かさや泥臭さ、切り捨てきれないものがきれいさっぱり覆い隠されて無味乾燥な印象を受けます。
それとはもっと『別のしかたで考える』ことをしたいではありませんか。
精神分析も現代思想もその手段の一つですが、今度は、人類学や生物学をフックにやってみる。そこでマルチスピーシーズの概念がきっと必要になるはずです。
自然礼賛でもなく、人間礼賛でもなく、多種の生物の絡まり合いを生々しく浮かび上がらせるマルチスピーシーズの概念は、大自然のなかで暮らす人々だけのものではありません。
焼き鳥屋では、モモとねぎまを選り好みする、わたしがいて、ガーデニングが好きだといいつつ、土壌をコンクリで固め、境域を侵食してくる植物や虫には容赦なく制裁を加えている。そんな生活にも、その気にさえなれば多種の絡まり合いを見いだすことができます。
そして矛盾と混沌と複雑さに目を凝らして、決して人間中心にならず、悲観も哀れみもせず、じっくりと観て書いて語り、描いて表現する。そうしたことに、現世を生きる面白さはあるのかもしれません。
* * *
※当文章内の『二重鉤括弧内の文字』は、書籍『マンガ版マルチスピーシーズ人類学』からの引用文、「カッコ内の文字」は引用した単語の強調です。
それ以外の個人的な強調は“ダブルクォーテンション”でくくりました。
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